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席亭ブログ
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旅行記
行き当たりばっかし(3)
下呂温泉に4泊したあとは、名古屋の大学でデザインを教えている旧友と
杯をかわした。20年前、石音を創業する前後の数年間、一緒に戦った
仲間だ。短く濃い時間のあと長い空白をおいての再会は、盛り上がる。
勝手に「プリンの法則」と呼んでいる。
濃い時間がカラメルで空白の期間が黄身の部分。この比率が丁度いいと
混ぜて食べるとうまい。そんな宴だった。
昔の仲間は増えない。プリンの数も限られている。
旅の6日目、一目散に東京に戻るのは惜しい気がして、静岡に寄った。
訪れたことがなかった久能山東照宮は駅から3時間もあれば往復できた。
全国にいくつかある家康の墓の中で、ここが一番「本物」、つまり
彼が眠っている可能性が高いそうだ。囲碁を生業とするものとして、
囲碁の創業者ともいえる彼の前で手をあわせられたのはよかった。
翌朝、ホテルの朝食が6時半と早めだったので、7時半には車中の人
となった。朝陽に輝く富士を上り電車から眺めながらふと思った。
一週間におよぶ一人旅はいつ以来だろう。もしかして学生以来…。
朝9時に帰宅すると、驚いたつれはひとこと。
昨日泊まる必要あったの?
もっともな指摘ながら、言われるまで全く気づかなかった。 -
旅行記
行き当たりばっかし(2)
「男はつらいよ」を見始めたのは40代にはいってからだ。
全48作を10年間で3回ずつぐらいは見ただろうか。
ここ数年旅先で、「ここ寅さん来たかな」と調べるようになった。
ロケ地には大観光地はあまり選ばれず、むしろ、あまり知られていない
場所が多い。木曽の奈良井宿や滋賀長浜、三重の賢島や丹後の伊根など
帰宅したあとに気づいて、映画を一時停止しながら見たものだ。
先日の下呂温泉でも、まぁここには来てないだろうなと思いつつ
ランチのほうば焼定食を食べながらスマホで調べてみて驚いた。
その店の目の前の橋で、寅さんがバイしていたのだ。
第45作のエンディング、マドンナが風吹ジュンで、弟の永瀬正敏が
新婚旅行先で偶然バイする寅さんと出会ったのが、この橋だった。
「男はつらいよ」第45作ロケ地
https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/location/424/
30年前とかわらず同じ建物が写っている!
と嬉しくなって思わず撮った。
狙っていないと、いいことがあるものだ。 -
旅行記
行き当たりばっかし(1)
週に何度かの散歩や、たまに出かけるぶらり旅を綴ってみたい。
キーワードは「無計画」。
単なる計画ナシではなく、意志をもった、狙った無計画だ。
「無計画をたてる!」といばってはみるが、つれの反応は薄い。
さて先週はひとり下呂温泉に4泊、名古屋、静岡に1泊ずつしてきた。
名目は一応「仕事」だ。ワーケーションなる便利な言葉が出来たのは
好都合だった。
下呂に来たのは初めてだが、草津、有馬とならぶ日本三名泉の一つとは
知らなかった。別府や箱根は怒らないのだろうか。
街中には至るところに足湯がある。温泉博物館もある。
道にはまだところどころ雪が残っていて日陰は凍っている。
自分のトークと同じで、すべらないようにするのが大変だ。
ししなべのランチで身体が温まったので、ちょっと足をのばす。
173段の階段をのぼり「温泉寺(おんせんじ)」に行ってみた。
詳しくは最下部リンク先を参照頂きたいが、全国各所のお寺巡りを
楽しんでいる目から見てもここはユニークだった。
湯薬師如来、通称「湯掛薬師」が鎮座していた。
座った下からこんこんと湯が沸いている。源泉かけ流しの如来だ。
お参りの際、自分の不調の部分にお湯をかけると治るという。
温泉を手ですくい、腰のあたりにかける。腰よりもかじかんだ手が
すぐに喜ぶのを感じた。ふだんの行いから頂く功徳だろうか。
もっと境内を歩いてまわりたかったが、いかんせん、一面凍った雪で
怖くて坂道には入れず残念だった。
ここも当地の名所の一つだろうが、水曜午後2時、階段、道すがら含め
誰にも会わず、湧き出したお湯が落ちる音以外聞こえない、
静かなお参りとなった。
温泉寺(下呂温泉)http://www.onsenji.jp/about/index.html -
今から25年ほど前のある夏の日の午後のことだった。
お盆休みからずらして休みをとっている先輩が数人いて
まわりは空席が目立っていた。のんびり仕事の書類に
目を通していると机の内線電話が鳴った。
「根本君、君はもう夏休はとったかね。あっそう、
まだならちょっと僕の部屋に来てくれるかな」
鈴木さんの野太いしゃがれた声は、受話器から
少し耳を離していても聞こえた。顧問の鈴木さんは
61歳で新入社員の僕とは37歳離れていた。
―囲碁部の話かな。
仕事の話でないのはわかっていた。鈴木さんは
会社の囲碁部の部長で、僕は間もなく鈴木さんから
引き継ぐことになっていた。
「失礼します」
ノックして部屋にはいると、鈴木さんは大きな黒い革張りの
背もたれに身体をまかせて煙草をくゆらせながら
一枚の紙を見ていた。
「これを一緒に行きたいと思ってね」
日本棋院主催、日中アマ囲碁交流旅行のチラシだった。
JALのツアーで第二回とある。すぐに値段に目がいった。
7泊8日で46万円だ。
―無理だな。貯金もないし。
そんな気持ちを察したかのようにつづけた。
「君さえよければ飛行機代はワシが出してもいいんだ。
JALのマイレージがたくさんたまっておってな」
がははと豪快に笑った。
「君のところの課長にはこのまえ話をしておいたよ。
根本君は10月後半に夏休みを取るよ、とね」
―えっそんな話がもう課長に!
僕の記念すべき社会人最初の夏休みが、
僕の知らないところで決まってるなんて。
おどろいて顔をあげるとすこしいたずらっぽさが
入った目とあった。
もう一度チラシを見ると、ただ囲碁を打つだけではなく
万里の長城や途中で西安に移動して兵馬俑など、観光も
もりだくさんの一週間だ。
―中国には行ったことないし、夏休みはまったく予定がない。
面白いかもな。
「囲碁部のほかのメンバーはねぇ、みんな家族がおってな。
誘っても、『鈴木さん、囲碁を打つならもっと近くで打ちます。
中国に行くならもっと安く行きます』なんて言うんじゃよ」
―そりゃそうだわな。
僕は100名近くいる囲碁部の中で18年ぶりに入社(入部)
した新人でただ一人の独身だ。幸い、高段者なので他のメンバー
からかわいがってもらっていた。
入社面接のとき、第二外国語は?と聞かれて思わず「囲碁」
と答えたのが形勢逆転になったのを思い出した。
人事担当役員が囲碁部だった。
「お誘いありがとうございます。行きたいと思いますので
よろしくお願いします」
その時の鈴木さんの嬉しそうな顔を今でもすぐ記憶の
フォルダーから取り出すことができる。
怒ると誰よりも怖いと社内でも有名な強面の顧問も、
僕にとっては大切な囲碁仲間のひとりだった。
鈴木さんと一緒に中国に行くことが決まってから数日たつと、
その話は課内で広まっていた。
―うちの根本をよろしくお願いします。
課長もあわてて挨拶にいったらしい。
そんな大げさなことかと思うが、会社はそういう
ところだと知った。課長はちょっと嬉しそうだった。
新人が夏休みに顧問と海外旅行、というのは
思った以上に周囲に衝撃を与えた。
これじゃ釣りバカ日誌のスーさんとハマちゃんならぬ、
ス―さんとネモちゃんじゃないか、と先輩たちは
面白がったり心配したり。
こんなきっかけでも囲碁に興味をもってくれる人が
周囲にあらわれて、それは嬉しい誤算だった。
「えっ一親等?二親等?それはねぇ、一緒に行く根本君は、
家族のようなものなんだよ。わかるね。なにっ、権限がない?
ではこの話ができる人と、変わってもらえるかな」
ある時、鈴木さんの部屋に行くと、いつもよりさらに大きな声で
航空会社と電話で交渉していた。自分のマイレージを使って
僕を中国まで連れていってくれようとしていた。
「家族のようなものなんだ」
あたたかいセリフだ。
僕は直立不動で、電話が終わるのを待った。
熱いものが心に流れた。
今思えばこの瞬間に「友情」が芽生えたのかもしれない。
結局電話のむこうが4人目にかわったところで話はまとまった。
遊びの話も決して手を抜かず、ルールがあるからという理由だけでは
あきらめない。商社マンの交渉術を間近で学ぶ貴重な機会だった。
「さっきむこうの総大将にテレックスを打っておいたよ」
交渉の厳しい顔から一変、いつもの笑顔にもどった。
打ち出されたテレックス用紙を見ると、
「いつからいつまでそちらに囲碁を打ちにいくのでよろしく。
Mr. Nemotoもいっしょに」
とある。宛先は中国支局の代表で常務だ。専務と常務の
どちらがえらいかまだわかっていない新人ながら、仕事の話
ではないのにこんな日中にいいのだろうかと心配になる。
テレックスはメールがない当時、海外支店とやりとりする
のに頻繁に利用した。毎朝課長が書いたテレックス文を
課に1台しかないパソコンでタイプするのは僕の役目だった。
料金が文字数で決まるため、英語の頭文字だけでやりとりする。
たとえば「ありがとう」は「TKS」で「本当にありがとう」
は「M(many)TKS」だ。
そのとき現地北京では、あの鈴木さんが来るということで
店の予約や車の手配、観光ルートの確認などが進んでいた。
同行の「Mr. Nemoto」は鈴木さんと2人で来るぐらいだから
相当親しく同年代と思われるものの、社内名簿ではそれらしい
人は見当たらない。ならば取引先の重役かだれかだろう、
という話で落ち着いていた。
本人はそんなことを知るよしもなく、間近にせまった
初めての夏休みをこころまちにしていた。
社会人になって初めて知った言葉に「カバン持ち」がある。
どこから見ても新入社員というストライプのネクタイを
しめる僕は、恰幅がよく余裕をただよわせる鈴木さんの
「それ」に見えるにちがいない。
空港のツアー集合場所には、シニア男性が15,6名と
日本棋院の職員と棋士の信田六段、さらにツアコンの女性1名が
集まっていた。若い男性は僕だけだ。
「鈴木さまはいらっしゃいますか。お荷物お預かりします」
とつぜん本当にカバンを持ってくれる人があらわれた。
ツアーの担当者かと思ったが、航空会社の女性職員だ。
鈴木さんは手慣れた様子で荷物を渡し、僕も一緒にくるように
手招きした。わけがわからずついていく。
仕事で頻繁にニューヨークを行き来しているので
このエアラインのお得意様のようだ。ツアーなのにこういう
こともあるのだと感心する。
慣れない場所できょろきょろしながら、ラウンジで
静かなひとときを過ごした。
「根本君、この席ひさしぶりで愉快だよ」
20年ぶりのエコノミーだそうだ。僕にあわせてくださった
のかと最初勘違いをしたが、ちがう。機内で対局したいのだ。
狭いエコノミーのほうが隣同士の間隔が狭い。
僕は事前の指示どおり、マグネットの碁盤を機内に
もちこんでいた。
「もう水平飛行じゃろう。さっ早く、盤を出しなさい。盤を」
横を見ると、大変失礼ながらゲートに入ったばかりの競走馬
のようである。鼻息が荒い。早く走り出したくて仕方がないのだ。
機はやっと離陸してまだ1、2分しかたっていない。
窓の外は雲の中。体重がまだかなり背中にかかっている。
「えっ、まだ全然水平じゃないですよ。もう少し待ちましょう」
至極まともな返答をしたつもりだった。
「何を言っておるんだ。もう水平飛行じゃ」
語気が強くなった。囲碁で怒らしたら、日本で右に出る者はいない。
仕方がない。そっとトレーを出して碁盤をセットした。
横を向きながら離陸直後の機上対局が始まった。
「お客様、まだトレーは出さないでください。危険です。
ただちにもとにお戻しください」
案の定、すぐスチュワーデスが飛んできた。
いい大人の2人が、小学生のように怒られた。
素直に小さくなっている鈴木さんの横で
僕は笑いを押し殺すのに必死だった。
北京に到着した我々一行は、一夜あけた翌日に
まず天安門広場にむかった。
―こんな広い広場は観たことがないな。
そう思って当然だ。東西500m、南北880m、
世界最大の広場で50万人は集えるという。
偶然だが今日2019年6月4日は、あの事件から
丁度30年だ。訪れた1994年10月21日は
すでに5年が経過していて、事件の面影はまったく
感じなかった。
気持ちいい秋晴れのもと、棋院関係者2名、ツアコン、
現地ガイドを含めた21名が1枚の写真におさまった。
僕は前列右から2番目だが鈴木さんは後列左から5番目だ。
前回ふれたように、この旅は鈴木さんの中国支社訪問も
兼ねているため、途中ツアーとは別行動となって鈴木さんと
2人で動くことが予想された。
ツアーで動いているときはなるべく鈴木さんから離れて
他のメンバーと会話をするよう心がけた。みな自分の
親より年上だが、せっかくなので知り合いを増やしたい。
広場にある毛主席紀念堂に向かう。18年前に亡くなった
毛沢東の遺体がいまだに警備数人に守られ巨大なガラスケースの中に
安置されている。
国家の威信をかけた技術のたまものだろうか。まるで昨日から
眠っているようだ。ここは日本ではなく、中国、社会主義国で
あることに気づく。
さてこのツアーはこうした観光も盛りだくさんながら、
もちろんそれがメインではない。貸切バスで市内にある中国棋院、
中国における囲碁の総本山にむかう。
途中の車窓からは、団地の一角で卓球を楽しむおばさん達が
目にとまった。風がふく野外で卓球をしている。その風を
ものともしないラリーが白熱していて、球の速さが日本の
温泉卓球の比ではない。草野球ならぬ草卓球だ。
こりゃ中国の卓球が強いわけだ。
はじめての中国は観るものすべてが新鮮だった。
話は前回より一日前、我々一行が北京についた日にさかのぼる。
ツアーの宿泊先は乗ってきた航空会社が運営する日系ホテルだ。
フロントでもロビーそばの売店でも普通に日本語が通じる。
部屋は鈴木さんと同室となった。ミニ冷蔵庫をあけてみて驚いた。
コーラが¥20、ビールは¥30とある。
「さすが中国ですね。びっくりするぐらい安いです」
鈴木さんに話かけるもすぐに間違いに気がついた。
中国の通貨「元」も記号が¥なのだ。
円と同じく発音がもとになっている。
日本円にするには14倍しないといけない。
夕食は中国側を代表する陳祖徳九段らと一緒だった。
「根本君はこっちに座りなさい」
レストランにはいると、どこに座るか逡巡する他のメンバーとちがい
鈴木さんはすぐに陳九段をはさむように席をとって僕を呼んだ。
テーブルは中国なので大きな円形だ。
陳祖徳九段。
中国の囲碁事情に詳しくない僕でもその名前は知っている。
中国棋院の院長であり中国囲碁会のレジェンドだ。
中国ではじめてプロになり、はじめて日本の九段を互先でやぶり、
そしてあの「中国流」を創った。
サッカーファンがペレと食事をするようなものなのだが、思ったほど緊張しなかった。
陳九段の流暢な日本語と穏やかな語り口、何より謙虚な人柄が
自然とそうさせたにちがいない。
名刺交換では、印刷された名前の横にその場でサインをしてくれた。
日本のファンを歓迎するこうした陳九段の細やかな気遣いは、数日間の滞在中
ずっとかわらなかった。
勧められるがまま紹興酒をあけたので、弱い僕はあっという間に赤くなる。
当然酔っているはずだが、そんな自覚もないほど感激の夜になった。
部屋にもどりテレビをつけるとサッカーの試合結果を放送している。
どうやらスポーツニュース番組のようだ。
次の瞬間、目を疑った。
囲碁が放送されている。今日の対局結果とその様子の映像だ。
ーあれっスポーツ番組じゃないのか。
そう思うのも無理はない。だが囲碁のあとは卓球と続いた。
ここ中国では50年以上前から、囲碁は正式な体育、つまりスポーツだ。
日本だと身体を動かすものがスポーツとよばれるが、ここでは頭も体の一部ということだろう。
そう、僕はスポーツ交流をしに北京まで来たのだった。
2日目は天安門広場の観光のあと、中国棋院で早速対局だ。
まず1局目は、日中アマ親善交流として中国のアマチュアの方が相手だった。
碁石は日本のものを横でスパっと半分に切った形をしている。
表と裏があって片面は楕円ではなく平らなので座りがいい。
打つとパシっと音がする。
当初、半分の材料で済むのでこうした形になっていると思ったが違うようだ。
局後の検討のとき、実際に打った石と想定図の石をそれぞれ表と裏で
区別しておけば、さっと元に戻せる。合理的な考えだ。
手、つまり着手で会話する意味から囲碁のことを「手談」というが、
その言葉どおり言葉が通じなくても対局はなんとかなった。
僕の相手はとても強く、僕はいいところなく負けてしまったが、
局後の検討では丁寧に教えてもらい楽しいひとときだった。
2局目は、中国のプロに指導碁を打ってもらった。指導する棋士は皆中国の
トップ棋士で、このツアーを歓迎する気持ちが伝わってくる。
僕は華以剛八段と3子、鈴木さんは有名な馬暁春九段と5子で2人とも
勝てなかった。日本語が話せる中国棋院の棋士が局後の検討に参加して
くれたおかげで、盤上でも中身の濃い時間を過ごすことができた。
夕方、いったん宿に戻る。予定表では夕食は中華料理の名店なのだが、
今夜は会社の中国総局のメンバーと鈴木さんが会う約束をしていて
僕もツアーとは別行動になった。
2人でホテルのロビーで待っていると玄関前に黒のベンツが2台停まって
中から人が降りてきた。同じアジア系の顔ながら一目で日本人とわかる。
「やぁ千葉さん、久しぶりじゃのう」
急に顔をほころばせた鈴木さんが大きな声で話しかけた。
中国代表の千葉常務だ。ほかにも2人いる。
「鈴木さんお元気そうですね。お久しぶりです」
簡単な挨拶をしている間、僕は鈴木さんのすぐ横で待っていた。
「ところでMR.NEMOTOはどちらです?」
自己紹介のタイミングをはかっていてずっこけた。
まさか顧問の鈴木さんがこんな若者と一緒に来るとは
思ってもみなかったのだろう。
僕はツアーの世話係だと思われていた。 -
天安門広場に通じる北京の大通りは、日本のそれとはだいぶ印象が違う。
まず幅が広い。片側7、8車線はあるだろうか。そして自転車が多い。
北京に到着した翌朝、寝ぼけまなこで部屋のカーテンをあけたとき、
最初眼下に川が流れているかと勘違いした。眼鏡をかけてよく見ると、
同じ方向に同じ色彩の服をきて走る何百台という自転車だった。
その自転車をよけるように車、そして大型バスが走る。
バスといっても日本の路線バスの2台分が連結されていて、
しかも超すし詰めだ。1台に150人は乗っている。活気あふれる
というより、みな全力で動いている。生きている。
鈴木さんを迎えにきた会社の車は、大通りを縫うように進んでいく。
遮音性の高い高級車の車内からは、外の様子が別世界のように見える。
「まさかMR.NEMOTOが今年入社した新人とはびっくりですよ」
「そうかのう、言ってなかったかのう。根本君はわが囲碁部で実力
トップクラスのホープなんじゃ。がははー」
中国総代表の千葉常務と鈴木さんが後部座席で旧交を温めるのを
助手席で背筋を伸ばして聴く。
ほどなくレストランに到着して5名での会食が始まった。
5名といっても、実質は4プラス1だ。
円形テーブルの話題は、中国の情勢、会社の経営の話に終始した。
話に耳は傾けるが、中身はまったくわからない。
もちろん意見を求められることもない。
自然と僕の興味は、次々と運ばれてくる本場の中華料理に移った。
格別美味な上海ガニを食するのに手間取ったため、それほど
退屈することなくこの時間を楽しめたのはよかった。
食後に鈴木さんを囲んで写真を撮ってもらう。
この10年後、商社に勤務しながら結局一度も駐在することなく「石音」
を起業する道を選んだ僕には、駐在員との交流を記念する貴重な1枚となった。
もちろんそのときは、そんな未来が待っているとは知るよしもなかった。
宿泊している日系のホテルではフロントでもショップでも
日本語が通じた。ここの従業員は日本語が出来ることが
条件になっているようだ。
着いたときから気になっていたフロント脇のショップに
入ってみた。
「お兄さんは日本のどこの人ですか?」
僕より若いと思われる女性店員から話かけられた。
東京だと答える。
「お兄さんは怪しい上海の人に見えます」
想定外の返しでずっこけた。こういうとき相手に興味をもって
会話をはずませるのが自分の特徴だ。
「どこが上海なの?何であやしいの?(笑) それにしても日本語うまいね」
顔立ちと背が高いところだという彼女達の説に説得力はないが、
そんなことおかまいなしにすぐに3,4人の店員に囲まれて
質問責めにあう。暇つぶしの恰好の相手があらわれたということらしい。
ハルピンの日本語学校で学んだという日本語は、発音も
イントネーションも正確で驚いた。ぼろぼろになった日本語の教科書が
ショーケースの下から出てきて、単語の意味を聞いてきた。
即興の日本語教室が始まった。
北京滞在の4日間、このショップには何度も足を運んで店員とは
皆名前でよぶほど仲良くなった。ツアーメンバーは自分の親より年上の人
ばかりなので、同世代との会話が楽しかった。
朝食後、近くの小さなデパートにも足を運んでみる。
デパートと思ったが、ワンフロアに30ぐらいの小さな店がひしめく
屋台村だった。客引きが盛り上がっている。
ぶらぶらしていると、ジーンズがたくさん天井から下がる店で
きもったま母さん風のおばさんにつかまった。
「お兄さんこれリーバイスよ、安いよ」
つり下がるジーンズのひとつを手にとって僕に見せる。
試しに、いくら?と中国語で聞いてみる。練習してきた中国語のひとつだ。
返答を聞き取れる自信はないが、おばさんはニコリともせずに
電卓をだして数字を見せた。500元、日本円にすると7千円だ。
最初からジーンズを買うつもりはないので、不要(ブヨ)と答えて
立ち去ろうとした。そうすると、また僕の袖をひっぱり電卓を見ろと
ジェスチャーをする。数字が400になっている。
―やはりな。こういう場所では値切るのが常識だからな。
ほれ2割さがった。
そう思うもこちらは買う意思とお金、語学力の3つがぜんぶ足りない。
また立ち去ろうとすると今度は数字が300になった。
―あれっおかしいな。確かにリーバイスってラベルにあるけど
中古品か不良品かな。
別の興味が沸いたが、ますます買うわけにはいかない。
隣の店にいこうとしたとき、おばさんは驚くべきひとことを発した。
「まったくもう本物のリーバイスなのよ。じゃあ100元でどう?」
―自分で言ってることがわかってるのかな…
心の中で爆笑だ。
手にはいつの間にか天井から取り外したリーバイスがある。
ものの5分で8割引きになってしまったが、本物だと真顔で主張する
おばさんの顔をみているうちに買ってみようという気になってきた。
試着室のような洒落たものはもちろんないので、その場で長さだけ
あわせて100元で「本物の」リーバイスを買うことになった。
あとで知ったがこの建物は有名な巨大偽物市場だった。
買いにくる人もわかって買っているので問題にはならないそうだ。
それはさておき、ホテルに戻りすぐ試着してみる。
サイズはぴったりで切る必要はない。
―1400円ならいい買い物だったかな。やりとりも楽しかったし。
そう思って脱いでいるとき、チャックの上部にあるボタンが
ポロリと取れた。
ツアー3日目の日中は北京郊外への観光だった。
バスにゆられて90分、明の十三陵とよばれる明の皇帝の
陸墓群についた。第三代永楽帝の墓もある。
着工から完成まで200年、広さは40kmにも及ぶというから
日本とは規模が違う。新宿から八王子まで延々と13人の墓が
並んでいるようなものだ。
次に万里の長城に向かう。北京からは一番メジャーなもので
八達嶺(バーダーリン)長城だ。10数年後、同じく北京郊外
の別の長城に足を運ぶことになるが、そこは幅が1mほどで、
草が背丈ほど生え放題であちこち崩れていた。裏山のがけといった
風情で誰も歩く人はいない。長城と言っても様々なものがある。
ここの長城はもともと馬が4頭横並びで歩けるように造ったもので
広い中国で一番有名な観光地ゆえきちんと整備もされている。
写真でよく見る光景が広がっている。観光地に来ると自然と確認
してしまう、「写真でよく見る光景に会えた」満足感はあった。
だがこの長城より印象に残ったことが3つある。
到着の少し前、車窓から奇妙な看板を目にした。
万里の長城が建設中とある。修復中ではなく建設中だ。
なんと、観光のピーク時にさばききれないため、近くにもう一つ
「新品の万里の長城」を造っていた。これには仰天した。
日本のGWにあたる労働節とよばれる休暇には、近くの高速道路は
延々10kmも路駐のバスが並ぶという。混雑緩和という目的で
遺跡を新たに造ってしまう発想には驚いてしまう。
同じく車窓から、山に大きく掲げられた「緑化運動推進中」の看板が
見えたとき、少し違和感があったので目をこらしてみた。
こちらはなんと、岩肌を緑のペンキで全面に塗っている。
ガイドに聞けば、これも本気で「緑化」を推進しているのだという。
たしかに禿げた茶色が広がるよりは見た目は麗しくなるが、これも
発想の飛躍なのか、それともここではこれが普通なのか。
そして長城の観光をおえてバスに戻ると、長城の絵がはいった
Tシャツを手にした売り子たちが窓の下に集まって連呼した。
「これ千円、1枚千円、安いよ。日本円でいいよ」
日本語である。誰かが窓をあけたら、彼のボルテージはさらに
あがった。勢いに負けて財布から千円札を出すのが見えた。
すると、となりの売り子が2枚で千円と言い出した。
車内は点呼が始まり間もなく出発だ。エンジンがかかる。
買った人が隣の人にちょっと自慢気にTシャツを見せている。
まぁ千円だったらいいんじゃないか。そんなやりとりが
かわされたそのとき、この人に売ったばかりの売り子が
大声で叫んだ。
「20枚で千円!」
―なに!1枚50円か。
後ろの席から様子をうかがっていた僕は噴き出した。
「おい、1枚千円で買っちゃったよ…」
買ったシニアの悲痛な声に、車内は爆笑に包まれた。
3日目の夜はツアーメンバーと北京ダックの「全しゅ徳」だった。
現在は新宿や銀座にも支店を出している北京随一の歴史を誇る名店だ。
ローストしたアヒルの皮を食べるのは知っていたが、薄い生地で
はさんで一緒に食べる食材の種類の豊富さに驚いた。前夜とちがい、
他のメンバーと会話をしながら本場の味を楽しんだ。
昼間がっつり観光をしても、ここ中国には囲碁を打ちにきている。
夜はホテルの一室がずっと対局ルームとして開放されていて、
毎晩日付がかわる頃まで打ち続けた。
中国棋士で日本語堪能な王さんは、夜も指導や検討につきあって
くれた。僕と鈴木さんはいつも一番遅くまで熱心に指導を受けた。
囲碁は中国で4千年前にうまれたと言われる。
さきほどのダックもそうだが、これが「本場の力」というものか。
ここにきてわずか3日で腕が少しあがった気がする。少し冷えていた
囲碁熱も再燃した。
その晩、僕の対局が終わったのが0時半頃。ふと横を見るといつの
まにか鈴木さんがいない。さすがにもう疲れて先に寝ているのだろう。
そう思って部屋に静かに戻ると、部屋の電気はついていて
テーブルにマグネットの碁盤がきちんとセットされていた。
「さて根本君打つかね」
笑顔でビールを飲みながらこれである。
限界を越えろということか。
一週間の旅行中、毎晩2時すぎまで囲碁漬けだった。
とても還暦を過ぎている人とは思えない。
商社マンの体力は恐ろしいものだった。
ツアー後半には北京から西安に移動した。
国内移動なので飛行機は小型で高度もそれほど高くはない。
眼下に見える中国国土の景色を夢中で楽しんでいると
あっという間に到着した。
西安には秦や漢、隋や唐など歴代の中国の都「長安」が
おかれた。唐の時代に長安は世界一の都市でもあった。
着いてまず目についたのは、市内を取り囲む城壁だ。
600年ほど前につくられた当初の姿のまま現在も使われている。
こちらも古城壁としては世界一の規模で周囲が13.7キロにも及ぶ。
皇居の3倍だ。
北京では中国棋院にいって現地の人やプロと打ったりして、
囲碁の合間に観光、だったが、ここでは観光の合間に囲碁、と主従が
逆転した。色々なものを見て回りたい僕にはありがたかった。
兵馬俑ではまずその規模の大きさに衝撃をうけた。
奥行が200mはありそうな巨大な体育館に案内された。
おそらく発掘現場の上に建物をつくったのだろう。
僕と同じぐらいの大きさの兵士たちが何千体と並んでいる。
みなそれぞれ顔や持ち物が違う。
1974年に偶然発見されて20年がたった今も発掘が
続いている。ほかにもいくつか発掘現場があって、いま
掘り出している最中の様子も間近で観ることができた。
ここ西安はシルクロードの起点だ。そしてこういう文化
と文化が出会う場所は食事が美味しいと相場がきまっている。
昼には小麦の麺にイスラムの香辛料がはいったものと、
冷えてない青島ビールを楽しんだ。
「根本君、ちょっとそこの門のところに立ちなさい。
写真とってあげるから」
午後の自由行動の時間には、鈴木さんと2人で西安大学にまで
足をのばした。
鈴木さんは自分の写真はさておきなるべく僕を写して
くれようとした。囲碁のときはのぞいてだが。
「根本君、いまのは何だね」
目の前をかなりのスピードで自転車が走り去った。
よく見ると自転車のおじさんは両足を宙に浮かしている。
こいでいないのにペダルが猛烈な勢いで回転している。
ここは坂道ではない。
「何でしょうか。原付バイクに自転車のペダルがつい
たようなものですね。でも何でペダルが…」
遠目に見てもペダルの猛烈回転がユーモラスだ。
免許をもってない人の苦肉の策なのだろうか。
談笑しながら小1時間歩きまわったが、他人からは37歳違う
僕らはどう見えるのだろう。そう思うと少しおかしくなった。
親子にしても会社の上司部下にしても歳がはなれすぎている。
もちろんおじいさんと孫ではない。
今おもえばそのとき鈴木さんと僕は、ただの「友達」だった。
もとより盤上では友達同士のように囲碁を楽しんでいたが、
ここ中国にきてそれが盤外にも飛び火した瞬間だった。
37歳離れた「スーさんとネモちゃん」の中国囲碁旅行は、
いったんはじまったら途中から時間がぐんぐんスピードを
あげてすぎていった。
帰りの飛行機では、マグネットの碁盤をトレーにおいて
隣同士で対局に没頭した往路とはちがって、2人とも
目を閉じてしずかに過ごした。
隣からはかすかに寝息が聞こえるが、僕は心地よい疲れを
感じながらも眠ることはなく、旅の印象的なシーンを
思い返していた。
離陸直後に対局を始めた僕らが、すぐにスチュワーデスに
怒られて小さくなったこと。
鈴木さんのおかげで現地の駐在員に歓待されるも、歳が
離れすぎて僕がMR.Nemotoだと気づかれなかったこと。
中国囲碁界のレジェンド、陳祖徳九段の隣で夕食と会話
を楽しんだこと。
その時はもちろんだが、四半世紀が過ぎた今でもどれも
はっきり思い出せる。
旅は家につくまでとはよく言ったもので、今回は成田空港に戻って
おしまい、とはならなかった。
「えっ根本君は車で来てるのかね。それじゃねぇ、
申し訳ないけど家まで送ってもらえるかな」
空港まで自分の車できていたので、大船にある鈴木さんの自宅まで
送っていくことになった。だいぶ遠回りになるが、面倒ではなかった。
どこかでもう少しこの旅を続けていたいと思ったのかもしれない。
飛行機の隣の座席や、対局しているときも互いの距離は近いのだが、
マイカーの空間はひとあじちがった。
それは、不思議と心地よい緊張感をともなう近さだった。
きっと、この一週間、寝食と盤上盤外を一緒に過ごしたからだ。
あのときは愉快だったなぁ。あれは美味しかったのう。とつづく
感想のやりとりが、車が鈴木さんの家に近づくにつれて、そして旅が
ほんとうの終わりに近づくにつれて、どんどんボルテージを
あげていった。
玄関から出てこられた奥様に初めて挨拶した。
温和な表情と語り口のむこうに芯の強さがうかがえる方だった。
鈴木さんに聞こえないように声のトーンを落として言った。
「楽しい旅行だったようですね。主人の顔を見れば
わかりますよ」
奥様の目が少しいたずらっぽく笑った。
言われてすこし嬉しくなった。
囲碁という不思議な魅力をもつ道具によって、ふだん
経験できないような旅ができたことは幸せだった。
思えば仕事中の一本の内線電話から始まった、
僕の「最初の夏休み」が終わった。
ー最初の夏休み(完)ー