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席亭ブログ
2015年4月の席亭ブログ
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どうやら囲碁を小さい頃からやってきたことが、原因のようだ。
あの頃、毎週末のように近くの碁会所に出かけた。中学生の僕でも、父や祖父
ぐらいの年齢の方と楽しく交流できた。歳が上ということでかしこまる習性。
全く身につかないまま大人になった。いや、正確にいえば、身についていない
自覚すらなかった。社会人になって、同僚が年配の方と話をしている様子を見て
気がついた。なんで皆こんなに、かしこまっているのだろう。歳ではなく中身で付き合う。年上の方に対して礼儀はわきまえる。人生の先輩
であることにリスペクトは当然だ。しかしそこから先は、何歳違おうと人対人の
付きあいだ。「俺を年寄扱いするな」
「俺を若造と一緒にするな」多くの年配の方は、こんな矛盾を心の奥に持っている。かしこまりすぎるのも駄目。
無礼なのももちろん駄目。普通がいいのだ。このことに気づいて普通に行動できる
同世代が、圧倒的に少ない。僕は意識して身につけた覚えがない。社会人になった。「年齢」に加えて「役職」というもう一つの階段が登場した。
僕は年齢と同じく、もう一つの階段もあまり気にならなかった。新人の時、
自分の席は廊下に近かった。課長の席まで5mあった。5m進むのに20年。
1年で25cm。ウェゲナーの大陸移動説では、年に何cm動くのだったか。
そんなことを入社日に考えた。年齢だけでなく、役職の階段もあまり気にならない。
囲碁の副作用というべきか。社会人にとっていい副作用かどうかは分からない。新人研修で基本的なマナーは教わった。失礼にならないよう日々振るまうことは、
簡単だった。しかし小生、小職。こうした小の文字をつける習慣には馴染めなかった。
毎日毎日、小、小、小。いったいどれだけ小さいのだ。
本当に自分が小さいと、相手が大きいと思っているのか。「一目を置く」という言葉をご存じだろう。一目とは一個の碁石の意味。囲碁では、
弱い方が最初に一目置いてから対局を始める。そこから、相手に敬意を払う、の意で
使われるようになった。社会に出て不思議な現象に遭遇することが増えた。
一目を置くのは「置く」だから、自分のはずだ。しかし時に、一目を置いてくれと
頼まれるのだ。「置く」から「置け」へ。おかしな話だ。敬意は発露するものである。
強制されるものではない。それが人ではなく建物ならば別だ。頭を下げなければ入れない茶室。地位をリセット
して一人の人間として入ってきてほしい。そんな感情がデザインされている。
素直に一目を置く気持ちになる。仕事中だろうが監獄の中だろうが、他人が決して制御できない場所が一つある。
それは頭の中である。心である。その自由な場所への侵略者とは、断固闘わなければ
ならない。そうでないと生きている意味がない。ただ年上というだけで、かしこまる
習慣。相手への特段の敬意なく、自分に小をつけてしまう習慣。こうした積み重ねが、
敬意の強制というおかしな現象を起こしているのかもしれない。僕はこれからも、囲碁に携わる者として矜持を持とう。自分で一目を置いていくのだ。