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席亭ブログ

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    下からの上から目線

    本当に日本語が読めるのか、は一旦置いておこう。

    5日前(1/19)のブログ『大きくなったらわかる』を読んだらしい。
    こんな返事がサンディエゴから届いた。

    ―アンクル明、ブログ見たよ。
     ちょっとドラマチックな書き方ね☺
     私ね、本当はわかっているのよ。
     もう大きいからね!Hahaha~

    16歳の姪Hana(写真奥)からだ。

    まぁこちらも「十分」大きいので
    Hanaがわかってるのはわかっていたが、
    それも一旦置いておこう。

    ―ちょっとドラマチックな書き方ね。

    まるでクラスメートにむけた感想ではないか。
    顔文字つき。しかもその指摘が的を射てる。
    31歳年上のおじさんはふつう“ぎゃふん”だろう。

    そんな「下からの上から目線」、アンクル明は嫌いではない。
    理由を考えてみた。

    昨夏の写真をみるかぎり、本当は上下がないのかもしれない。


    hanakana

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    3歳の記憶

    僕は2歳から4歳を山形の米沢で過ごした。
    冬は豪雪で家が埋まり、2Fから出入りしていたそうだ。

    かすかな記憶がある。
    遊んでいる最中、雪の穴に落ちてしまって父に助けられた。
    恐らく大きな声で泣いたにちがいない。

    写真や伝聞で作られた記憶もあるだろうが、
    楽しい最中に突然起きた「悲劇」は記憶の底にたしかにある。

    今日、久しぶりに東京は雪景色となった。
    二子玉川に住む5歳と7歳の2人の姪は、
    さっそく自宅バルコニーで楽しんだようだ。

    妹のほうの右足を見ると、この記憶は僕のよりも
    もっと確かなものとして刻まれるだろう。


    yuki

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    紙に書こう

    以前、鎌倉文学館で鎌倉ゆかりの文豪の直筆原稿を
    見る機会があった。

    芥川龍之介、夏目漱石、川端康成、与謝野晶子。

    どの原稿にも削除、挿入、書き直しなど、
    苦闘のあとがはっきり浮き出ていた。

    完成原稿でこれだとすれば、没原稿はどれほど
    クシャクシャになって部屋を埋めつくしただろう。

    書いたものを丸めるとき、頭をよぎるふがいなさ、
    口惜しさはいかほどだっただろう。

    ふと思う。

    100年前の作品がいまだ多くの人に愛されている。
    では100年後に今の作品が同じように読まれるだろうか。

    名作として評価され読まれる作品の量は限られる。
    “入れ替え戦”であの文豪たちに勝てるだろうか。

    書くという作業が、パソコンに向かって行うのが
    あたりまえになって20年が経った。

    いま忘れられつつある「紙に書く」が
    名作が輝く理由のひとつだとしよう。

    半歩でも近づくためにやるべきことは決まった。
    明日から僕も「紙に書く」をもう一度日々の営みに戻そう。

    このブログは別として。

  • その他

    イメージ崩壊

    「円錐は横から見たら△だが上から見たら〇」

    は、視点をどこに置くか、つまり視座によって結果がちがう
    例としてよくつかわれる。

    世界史では「大航海時代」という前向きな表現で僕らは習ったが、
    侵略された側から見たらあれは「大海賊時代」だった。

    曹操と西太后。悪役のイメージが強い2人を扱った
    NHK-BS番組2つを見た。

    番組タイトルから「視座をかえればいい人だった」というものを
    予想したが、見事に裏切られた。

    まず、なぜ悪役のイメージがついたのか、を徹底的に分析して
    事実と違う点を明らかにしていく。
    新発見の資料(2009年に発見された曹操の墓や遺骨など)
    も真実を裏付ける証拠として登場する。

    視座ではなく「イメージを崩して」実像に迫ったのだ。

    歴史の真実は視座転換で見えてくる。

    僕の頭にこびりついたこんな「イメージ」もいっしょに
    この2つの番組は崩してくれた。

    *曹操と孔明
    https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92351/2351715/index.html

    *悪女たちの真実 西太后
    https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3872/2676042/index.html

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    心に残る贈り物

    ―ん?結構軽いね。札束ではないようだな。

    父はデパートの包装紙に包まれた少し大きめの箱を手にして
    顔をほころばせた。


    こういう軽口は喜んでいる証拠だ。
    半世紀近く息子をやっているとわかる。


    父の誕生日は正月気分が少し落ち着く1月3日。
    今年は喜寿の御祝いに帽子をプレゼントした。


    その日以降、散歩のときはいつもかぶっていると母から聞いた。
    先日の伯母の葬儀のときも「どうだい、似合うだろ」と
    嬉しそうだった。


    実はこの帽子、買うときにちょっとした“事件”があった。

    売り場にたくさん並んでいる帽子から1つを選んで会計を頼んだ。
    店員は店の奥に新品をとりにいった。その時だった。


    ―あれっこの帽子だけ安くなっているわ。

    ショーケースの上に10個ほど並んでいる帽子の中で
    1つだけ値札が安く貼りなおされているのをつれが見つけた。


    ―色も違うし別のだからじゃない?

    この意見はすぐに却下された。間違いなく同じもので色違いだという。
    もとより細部への目配りで僕の出る幕はない。


    ―この帽子だけ“わけあり”なんじゃない?

    もっともそうなこの意見もスルーされた。
    戻ってきた店員をつかまえてすぐ質問している。


    ―もうしわけございません。
    ​ 正しくは先ほど
    お渡し頂いたお品物に貼られた値段なのですが、
    ​ お客様はいまこちらの値段を見てしまわれたわけですので…。


    実は数日後に始まる初売りセールの準備品が、なぜか1つだけ紛れていたのだ。

    動揺の色が隠せない店員は、いったん上司の判断をあおぎにもどった。
    結局父の帽子もセール前ながらセールと同じ値段にかわった。

    会計をお願いしている途中で5千円安くなるという事件
    は、
    庶民のテンションをあげるには十分だった。

    ―これでさっきのランチが浮いたね~

    贈った側にとっても心に残る贈り物になった。