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石音インストラクターブログ

2015/11/29

囲碁教え方, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『思いのまま打つ』

ついに、根本席亭の本が出版されます!
皆さんより一足先に、席亭より直々に本を頂いて読んでみました。
ん?私の話が出ているじゃないの~。ああ、あの話ね。根本さん、覚えてたのね。
ということで、元ネタのエピソードを今回はコラムに書いてみました。

題名「思いのままに打つ」

あるカルチャー教室でのこと。碁をはじめて一年ほどした生徒さん(年配の女性)が、
私に相談があるというのです。
「囲碁は面白いけど、ちっとも上達しない。せっかく教室で習っているのに、一向に
上達しないなんて、私、碁の才能がないんじゃないかしら。もう教室やめようかな」
急な告白に、私は言葉を失いました。彼女がそんなに苦しんでいるとは、思いもしなかった
からです。その時私の脳裏に、対局中に懇々と考え込んでいる彼女の姿が、ふと
浮かびました。
「そうか。彼女は碁を楽しんでいたのではなく、苦しんでいたのか」と、その時はじめて
気づきました。まあ、ダメな先生ですね。しかし、相談に来るということは、まだ望みは
あるはずです。囲碁は面白いと言っているし、上達したいということは、裏を返せば碁が
好きだと言っているわけですから。この方は、私からの的確なアドバイスを望んでいる
のだ、と思いました。
そこで私は
「あまり色々な事を考えずに、シンプルに自分の打ちたい手を打ってみてはどうですか」
と言いました。とりあえず、対局中のあの辛そうな時間から、彼女を解放してあげたい。
そんな思いから、このようなアドバイスとなったのですが、正直効果があるのか
どうだか・・・。

それからです。彼女の様子が見違えるほど変わったのは。
今までは長考派で、かなり慎重に打っていたのに突然、小気味良く着手が早くなり、
以前彼女から感じられた対局中の息苦しさが無くなりました。表情も明るくなり、まるで
この世の春が訪れたかのように、自由を楽しんでいます。変わったのは様子だけでは
ありません。何と囲碁が上達しはじめたのです。一体、彼女に何が起きたのでしょうか。
私は彼女のある変化に気づきました。それは
「悪い手をたくさん打てるようになった。」ということです。
良い手を打てるようになることが上達だと思っていた私には、正直驚きの発見でした。
「良い手を打て」と教える指導者はいても、「悪い手を打て」と教える指導者はいません。
良い手ばかりを打たせようとする今までの私の指導法は、どこか間違っていたのではないか。
そして、どう打てば良いかという「答え」だけを求める生徒さんの学習姿勢にも、
何か重大な落とし穴があるのではないか。そう思った私は、さらに彼女の変化を深く
考察してみることにしました。

どうして悪い手を打てるようになったら強くなったのでしょうか。
普通、悪い手を打てば碁は負けるので良くないことのはずです。それなのに彼女は明らかに
上達した。私のアドバイス「自分の打ちたい手を打ってみる。」に従い、彼女は自分の
思いのままに碁石を置くようになりました。そうすると、見たこともない奇妙な形
(愚形とも言う)や定石や手筋にない手が、盤上にたくさん現れました。それらは、
人や本から教わった「知識の手」ではなく、彼女の意思が生んだ「考えた手」だったのです。
自分の思い通りに打つことで、大げさに言えば自身の囲碁観を盤上に表現できるように
変わったわけです。その表現が多少まずい「悪い手」であっても、自らの考えで
打たれた手であれば、何が悪かったのかを体験的に理解できるようになったのです。
その理解は、本の解説を見て覚える表面的なものではなく、自身の内面から湧き出てきた
より深いもののようです。そして、悪い手を体験的に理解す ることで、その反対の
良い手を暗記ではなく自分の力で導けるようになったのでした。

得てして大人は結果を早く求めたがります。失敗しないでどうやって事を成すか、
上手くいく「答え」だけを知りたがります。そしてその教えをマニュアル化し、
どの局面でも判を押すかのように繰り返します。下手をするとマニュアル通り打ってこない
相手に対し、「それは定石ではない」などと言ったりして。
一方、指導者も「答え」を教えることが良い指導法だと勘違いし(以前の私もそうだった
が)、知らぬ間に答えを覚えることを生徒さんに強要してしまいます。暗記することを
義務づけられた生徒さん達は、覚えられないことに落胆し、自分は囲碁に向いてないと
思うようになるわけです。これは両方にとって不幸な話です。

どうやら囲碁は覚えるのではなく、考えて体験してみると良いようです。そもそも囲碁は
人に教えてもらうものじゃないのかもしれません。と言い切ると、私の仕事がなくなって
しまいますが。それは置いといて、囲碁は自分で考え体験し学んでいく自ら創造する
ゲームだったのです。
いや、ゲームというより芸術に近いもののように思います。形式に拘りいつも同じように
打っていては、それは誰かのコピーにすぎません。そこには「あなた」である理由が
何もない。結果など気にせず、自分の思いのままに打てば良かったのです。
それが正しい学びの姿勢であり、何より囲碁の楽しみ方ではないでしょうか。

それから私は指導方針を改めました。知識に縛られず、自分の思いをしっかり表現すること
を指導しました。その時に、失敗することもありますが、それが学ぶことですよ、と
伝えました。人生で失敗すると取り返しがつかない事もありますが、囲碁なら「もう一局」
と言えば良いわけです。むしろ、失敗しなきゃ損ですよ、くらいに言いました。
すると効果はてきめん、ほとんどの方が上達の扉を自ら開けていくのを実感しました。
広い意味では「悪い手」なんて存在しない。

悪い手もしっかり体験すれば、むしろ素晴らしい手と成り得る。それが私の気づきでした。

思えば子供たちは、自分の思いのままに悪い手もひどい手も躊躇なく打ちます。
そうやって頭ではなく体験的に囲碁を覚えていくので、上達が早いわけです。
大人は失敗を恐れて、知識に囚われがちです。

皆さんももっと自由に、自らの考えで囲碁を打ってみませんか。きっと楽しいですよ。

2015/11/15

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『ゲームを超えて』

とても悲しい出来事がありました。

日本棋院の段級位認定大会に、4歳の男の子が参加していました。
10級で申請していましたが、碁の内容を見る限り6、7級くらいの実力はありそうです。
5月に碁を始めてわずか4か月ほどでここまで強くなったそうで、大会申し込みをした時点
より、2、3級は強くなったのでしょう。
案の定、大人相手に快勝していました。しかし、事件が起きたのです。

対戦相手のおばさんが、対局中にクレームというか4歳児を罵り始めたのです。
優しさのない言葉は、4歳児を追い詰めていきました。そして終いには、子供が反則行為を
したと言い出 したのです。子供は動揺して泣いています。異常事態に気づいた審判長が
盤面の確認に来たのですが、おばさんは子供がどれだけ酷い行為をしたかを一生懸命
審判長に説明しています。
子供は嗚咽しながら小さな背中を丸くしていました。結果は審判長の判断で両者勝ちと
なりました。おばさんは嬉しそうに席を立ち去っていきました。
もちろん盤面は100目ほどの大差でしたが。。。

一部始終を見ていた私は、おばさんへの怒りというより悲しみの方が強かったです。
碁を教える身としては、このような悲しい出来事をさせるために碁を薦めているのでは
ない、という思いがあったからです。
ちょっとおこがましい考えではありますが、あのおばさん を救ってあげることは
できないものか、と本気で思いました。
なぜなら、おばさんも辛い思いをしながら碁を打っているように感じたからです。

そこで最初に私が考えたのは、勝敗を競わない教室を作る、というものでした。
勝ち負けの呪縛から解放してあげれば、碁を純粋に楽しむことができるのでは?
と思ったからです。
しかし、その教室は目的がはっきりしません。碁を通じてコミュニケーションの場所を
提供するという目的になりそうですが、それなら別に碁でなくてもできます。
もう一つ気になるのは、勝負を楽しむゲームとしての碁を否定しているとも受け取れます。
勝負を楽しむことは、碁の本質の1つです。それを否定していると取ら れては、
碁自体の価値を下げるような行為となってしまいます。
それではもったいない。

そこで、勝負とは違う、新しい軸を作ってしまえば良いことに気づきました。
引くのではなく、足すのであれば、碁の価値を高めることになります。

そこで思いつたのが、芸術としての碁 です!

元々、碁にはゲームと芸術の2面性があると言われています。
「琴棋書画」という言葉がありますが、碁が音楽、書道、美術と並んでいるわけですから、
これはもうジャンル的には芸術と言っても良いでしょう。
この中で碁だけが、勝負がつくゲームとしての要素も含んでいるわけです。

現在の囲碁会碁事情を考えた時に、勝負を楽しむゲームとしての碁は浸透してますが、
芸術としての碁はどうでしょうか?
碁は芸術だ!なんて言いながら、芸術としての活動ってしてないんじゃないの? と、
私は思ったわけです。私も含めてですが。。。
ゲームとして勝ち負けを楽しむ碁なら、囲碁上達教室といった内容になります。
目的は上達ですからね。これは既存の教室であり、碁会所はほぼ勝負だけの世界です。

それでは、芸術として楽しむ碁とは、一体どんな場所になるでしょうか?
その答えは、音楽、書道、美術の教室にあります。芸術の教室は、作品を発表することが
目的です。つまり、作品づくりを楽しむことに主眼があります。ここですよ。ここ。

要するに私が言いたいのは

碁だって、作品づくりと発表に主眼を置いた場所があっても いいじゃない! というもの。

棋譜を頑張って二人で作って、みんなに見てもらうために発表する。
この時、ゲームの碁感覚では、「私みたいな下手な者が棋譜を発表するなんて・・・。」
という発想になりますが、芸術の碁では棋力は関係ありません。
ここで、ブレない男 長谷俊(石音イン)の名言を私は思い出しました。

長谷「初段を目指すためには、まずは打った碁の並べ替えしができるようになりましょう。
そして、皆さんの棋譜を遺すのです。」

生徒A「しかし長谷先生。井山さんの棋譜なら後世に残す意味ありますけど、私たちの
棋譜を遺したところで。。。」

長谷「なにをバカな!良い棋譜ばかり残しても仕方ないでしょ。後世の碁打ちに、こんな
ヘボな碁打ちがいて、時代を超えて同じような苦悩を味わっていたと伝えるわけですよ。
それは名局より意味があるでしょ!」

その時は皆さん爆笑しましたが、さもありなん。芸術とはその時の感情の表現であり、
完璧などという発想とはそもそも次元が違うものなのでした。

15級の方はその棋力での自分の作品を作ればよいわけです。

先日、上野毛教室の近くにある五島美術館に行ってきました。目的は、茶道具の水指
(お湯をいれる器)を見に行くためです。
前日に石音の根本さんから、「破袋(やぶれぶくろ)」なる水指があることを聞き、
教室が終わった後に美術館に寄ってみました。
その水指は、器を焼いてる最中にどうやら大きな亀裂が入ってしまったようです。
そのヒビ割れが いいね! ということらしいです。
これって完璧を求める世界(勝敗や善悪)ではあり得ないことですよね。
しかも、国宝につぐ重要文化財に指定されていました。はあ。

つまるところ皆さんの碁作品も、300~400年後には「破石(やぶれいし)」なんて
題名がついて、国宝級の扱いを受けていてもおかしくないわけです。たぶん。

もう一つ、芸術碁が良いと思う点は、
芸術としての碁であれば、対戦相手は敵で はなく「共同制作者」になることです。

互いに力を合わせて良い作品を作る(人に見てもらう)ことが目的となりますので、
勝負の碁で生じる負けた時の失望感は軽くなるでしょう。
また、勝つためには手段を選ばないという寂しい行為も、誰もする必要がなくなります。

そして、良い作品を求めて、勉強して切磋琢磨していくうちに、最後に得られるものは
一緒に作品を完成させた仲間です。
目的をコミュニケーションの場を作るとするよりも、目的はあくまでも良い作品づくり
とし、それによって得られるものが新たな気づきや仲間というシナリオの方が、
スマートな気がします。
まあ、部活で例えると、目標は甲子園出場ですが、それに向かって努力する過程で
生まれる絆な友情みたいな感じですかね。
絆や友情のために部員募集としては、何かおかしいですよね。

「欲しいものを手に入れる前に、もうすでに大事なものが手に入っていた。」
なんてセリフを言わせてやりたい。

そんな場所を提供したいんです。

P.S.兵馬の気づき番外編
先日、家族旅行で屋久島に行きました。屋久島での気づきをひと言。

屋久島では、鹿や猿、小鳥や昆虫、木々や草花、生命あるものだけでなく岩や水や風
までもが互いに命をつむぎ、ただただ種を未来に繋げるという厳かな行いだけが
日々刻々と繰り返されていた。縄文杉とてその一つに過ぎなかった。
神聖なる営みを目の当たりにして思うことは、「人間だけが大きくズレてしまった。」
という責念だった。

人間であれば種を繋げるだけでなく、知恵や文化を後世に残すことが大事なはず。
屋久島の全てがそうしていたように、我々も互いに心をつむぎ、次の世代に今を伝える
べく生きていければ、幸せなんじゃないだろうか。
囲碁もどうだろう。井山さんは間違いなく縄文杉だけど、それを造り上げ支えているのは
我々碁打ちすべての人であって、ひとりひとりの碁が井山裕太へと繋がっているはずだ。
そして未来にもつながるように、みんながそんな碁を打てたなら、碁会の未来も明るく
なるんじゃないだろうか。
つい最近、2015年度のノーベル賞受賞者が発表され、医学・生理学賞に大村氏、
物理学賞に梶田氏が選ばれました。お二人の功績がどれほど凄いのか、私には到底
理解することはできませんが、大村氏の研究は、全世界数億人の命を救ったと言います。
なるほど数億人の命を救ったのであれば当然の受賞だな、と私も納得しました。

ちょっと気が早いですが、来年のノーベル賞が今から楽しみで仕方がないのであります。

何故かって?

それは、私がとんでもない世紀の大発見をしてしまったからです!
その発見は、数億人の命とは言わないまでも、数 億人の悩みを解消する
画期的なものなのです。あっ、すいません。数億人はかなりサバを読んでしまいました。
数千万人に訂正します。

私の大発見とは・・・
「碁が強くなる呪文」 を見つけてしまったのです。
ん?疑っていますよね。そこの人たち。
そんなものがあるわけない。と、思ったでしょ?

断言します。「囲碁が強くなる呪文はありま~す♡」
私は何度も呪文を教室で使って、再現実験に成功していますから、安心してください。

この呪文を発見した経緯を少し説明しましょう。
ゴルフ場で・・・あ、いや自宅で、微生物から・・・ではなく息子から発見いたしました。
息子と13路盤で対局中 で の出来事、息子がある言葉を発すると、私の予想をはるかに
上回る手がドンドン出てきたのです。

息子とはほぼ毎日打っていますから、大体の手は予測がつきます。
しかし、その言葉を唱えた後の着手は、明らかに彼の能力を超えたものだったのです。
その言葉が囲碁が強くなる魔法の言葉、つまり呪文だったのです。

前置きはこのくらいにして、皆さんには特別、その呪文をお教えしましょう。

その呪文とは・・・
「もうちょっとイイ手ないかな~」 です。

これを唱えて着手をすれば、囲碁が強くなります。
ポイントは純粋な心でちゃんと口に出して唱えることです。
そうしないと効果はありません。何せ呪文です ので。

私の実験でも、大人より子供に効果があったので間違いありません^^
もう一つ注意点として、囲碁が強くなる呪文であって、勝つための呪文ではございません。
何故なら、この呪文を唱えた瞬間、相手にも魔法がかかってしまうからです。
その点をご理解ください。

とまあ、ここまでは半分冗談でしたが、ここからは本気で呪文の謎を説明しましょう。
この呪文はなぜ効果があるのか、理論的に説明すれば、猜疑心の塊のような
そこのあなたも、明日からは呪文を唱え続けるでしょう。
それでは、ひとつずつ説明します。

棋力を計るバロメーターに、盤面をみる視野の広さ、というものがあります。
ある着手をす る場合、どこまでの広さを意識して打たれているか、が視野の広さです。
どちらかというと、見ているというより感じているに近いでしょうか。
この視野の広さの差が、棋力の差と比例しています。

私の経験では、囲碁覚えたての入門者なら碁盤の1、2マス程度の視野です。
10級前後で3×3マス程度、初段前後で5×5程度
高段者で盤の4分の1程度、全局を見渡せて打てればプロ級、という感じです。

個人差と局面にもよると思いますが、大体イメージはそんな感じです。
つまり、囲碁が上達するにつれて、碁盤を見る視野が広がっていくわけです。
逆を言えば、視野を広げる練習をすることで、自ずと碁が上達することになります。

そこで有効なのが例の呪文です。
「もうちょっとイイ手ないかな~」 と唱えることで、脳に直接命令を送り、
強制的に視野を広げることが可能となります。
そうすると、今までは出てこなかった着想が浮かびやすくなるわけです。

ほかに、強制的に視野を広げるテクニックとして、姿勢を正す、というのもあります。
姿勢を正すことは、作法としてだけでなく、技術向上にも重要な役割を果たしています。

もう一つ呪文が優れている点を指摘しておきます。
碁の上達は一歩一歩の積み重ねです。2段跳び3段跳びで強くなる事はありません。
山で例えるなら、麓にいる人がいきなり頂上には行けないということです。
一歩一歩進むことで、少しずつ頂上に近づくわけです。

碁で言えば、10級の人がいきなり初段にはなれませんよね。
10級の人はちょっとイイ手を探して9級になり、もうちょっとイイ手を探して
8級になって、そうやって上達するわけです。
したがって、10級の人に初段レベルの手を教えても意味がありません。
10級の人には、少し上のレベルの手が一番為になります。
つまり、棋力に応じて為になる手は変わるのです。

これは指導者にとって、重要なポイントです。
強くても教えるのが下手な人は、大抵自分のレベルの手を初心者とかに教えています。
少しだけ上の手を示してあげるのが良い教え方となるわけですが、そんな技術は
教える訓練を相当積まないと普通はできません。
ですので、10級の人にとって一番良い先生は、実は8級程度の人なのです。

ちょっと棋力が上の人の手なら、理解もできるし、対局もしやすいですから最高です。
碁敵がいると自然と強くなる のも、気持ちの張り合いだけでなく、そういった
技術的効果もあるからです。
10級の人だって、12級の人にとっては良い先生なのです。
この理論がわかれば、だれでも碁の先生になれることが理解できるでしょう。

そこでもう一度、例の呪文を思い出してください。
「もうちょっとイイ手ないかな~」
最善手を求めるのではなく、もうちょっとイイ手が効果的なのでした。

最後に補足ですが、最善手を求めようとすると、どうしても「無理」という感情が
心のどこかに生まれてしまいます。
しかし、もうちょっとイイ手なら何だかできそうに思いませんか?

無理と思えば無理ですし、できると思えばできる 。

魔法の言葉とは、そういうものです。

2015/10/16

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『兵馬の㊙マルチ大作戦!』

ここだけの話ですが、最近私はいい作戦を思いつきました。
この作戦が上手くいけば、皆さんボロ儲けであります。

念のため釘を刺しておきますが、決して他言はしないでくださいね。
何せ作戦名は「㊙マルチ大作戦!」ですので・・・。
私が言うのも何ですが、とてもとても怪しい作戦ですので、
突っ込みはご遠慮ください。それでは3回目のコラム、スタートです。

長年、私は囲碁を教えることを生業としてきました。微力ではありますが、
囲碁普及に貢献してきた自負もあります。

しかし、如何せん個人で普及するには限界があると、最近しみじみ感じています。
初心者をゼロか ら教えるには、指導者がほぼ付きっ切りで数か月はかかります。
初級者や中級者も受け入れてくれる場所が少ないため、放置しているとすぐに
碁から離れてしまいます。なので、初級者・中級者もケアする必要があります。
上級者になってやっと、色々なコミニュティに参加できるようになり、
独り立ちして卒業です。

この作業を囲碁講師1人でしていては、量・質ともに限界があります。
講師数人で担当を決めてやれば質の向上はあるでしょうが、
それでもトータル量はそれほど差は生じないでしょう。

そこで私が考えついたのが 「㊙マルチ大作戦!」 なんです。

簡単にこの作戦を説明すると 「囲碁を教える人を育てる」 というもの 。
そう聞くと、囲碁インストラクターを育てるのと思った方もいるかもしれませんが、
それほど大げさなものではありません。

私が目指すところは 「すべての碁打ちが囲碁を普及できる人」
にしちゃうことです。つまり、上級有段者はもちろん初級者までもが、
入門指導ができるようになることです。
もしこれが実現すれば、爆発的に囲碁普及が進むはずです。

しかし、この作戦には2つの問題点があります。
1、囲碁を教えるための技術が浸透していないこと。
2、初級・中級者が教えることを上級以上の人が馬鹿にする風潮があること。
(これは教えることに限らず、囲碁会全体にある悪しき風潮。普及が進まない根源)

この2つの問題点を当コラムで少しずつ解決していこうかな、と思っています。
教える方法をしっかり理解するためには、まず上達が如何にして起きるか、
を知る必要があります。

したがって、順序としては上達法を踏まえた上で、指導方法を紹介したいと
考えています。自分だけ強くなりたい人は、上達法だけ読んでも構いません。
ただし、有力な上達法に「人に教える」というものがありまして
あなたはすでに私の術中であることを、先にお知らせしておきます。

さて、もし私の生徒さんがすべて囲碁普及者になったら、どうなるか?
皆さん想像してみてください。

1、私の生徒さん1人1人が入門者を育てる。
2、その入門者を中級・上級の生徒さんが初級レベルまでは育てる。
3、初級レベルに達した新生徒さんは、新たに入門者を勧誘する。
4、私はたまに見回りテキトーなことを言う。
5、生徒さんが新たな生徒さんを呼び、私はニコニコしているだけでボロ儲け。

これが「兵馬の㊙マルチ大作戦!」 の全貌です。
もう一度断っておきますが、決して他言はしないでください。
㊙の意味をご理解ください。

ちなみに私だけが得しているように見えますが、それは大いなる勘違いです。
この作戦が進めば、囲碁会分布図(そんなのあるのか?)が変わります。
初級・中級者の全体に占める割合が増えますから、現行の上級者 以上が多い
分布図が逆転します。つまり、初級・中級者が囲碁会の中心になるわけです。

つまり、この作戦は、囲碁が弱くていつもイジメられている初級・中級者が
自由を勝ち取るための、言うなれば「囲碁会革命」です。
あ、上級者以上の方に得がない? そんなことはありませんよ。
上級者以上の方も自分が教えることで、特権階級になれるわけです。
つまり、皆さんにとって良いことだらけの作戦なんです。
そこをご理解ください。

この宇宙コロニーよりも壮大な作戦の手始めが、当コラムです。
今回で3回目となりますが、まだ前回までの話を読んでいない方は
今すぐ読んで頂きたい。
作戦はもう始まっていますので、少し出遅れていますがまだまだ間に合います。
また、もう読んだという方も、今回の内容を踏まえた上で、
もう一度読み直してみましょう。
作戦遂行には意思統一が大事ですので、そこをよくご理解ください。

それでは、今回はここまで。
次回は世紀の大発見 「囲碁が強くなる呪文」 のお話をします。

2015/10/03

囲碁, 関兵馬インストラクター

兵馬の気づき 『全自動洗濯機』

我が家にドラム式の全自動洗濯機が登場したのは、今から10年ほど前。
洗濯から乾燥までをボタン1つで可能にしたその機械は、我が家に家事革命を起こしました。

新婚当初、国道246号近くのマンションに住んでいました。車の排気ガスのため、
洗濯物を部屋干しせざるを得なかったのですが、どうしてもあのナマ乾きの臭いが
気になって仕方がなかったんです。

そこに登場したのが、ドラム式全自動洗濯機の「ぜんじ」さんです。
「善二」さんは毎日昼夜を問わずしっかり働き、我が家から「ナマ乾き」なる単語が消えました。
現在は2号機「善次」さんが活躍中。
彼氏の良いところは、私の言ったことを忠実におこなってくれるところです。
何せ私の命令に背いたことは、今まで一度もありませんから。
掃除機は数年前に「ルンバ」君なる輩が登場し、勝手に動き回る彼氏は、
私を部屋の隅にあっという間に追い込んで来ます。
今ではルンバ先生のために、床掃除をしている私です。
我が家で私の言うことをきいてくれるのは、もう「善次」さんだけです。。。
(哀(たまに大きな独り言をいってますが)

さて、私の話はそのくらいにして、囲碁の話に戻りましょう。
前回は「攻めの大事さ」についてお話しました。

簡単におさらいすると、攻めることで着手の選択権を保持し、自らの選択から
実体験を積むことで碁の理解が進む、という内容でした。
逆に、相手の着手に受けてばかり(守ってばかり)では、自分で着手を選んでいないので
学習効果が薄い。昔なら「気合が悪い!」と着手の善悪を超えて根性論的に
指導していましたが、あれは正解だったんです。
たぶん昔の人は、経験的に学ぶ姿勢を理解していたんでしょうね。

選択権を保持することの大事さは、普段の教室でもよく指導しています。
「盤上は好きなもの買っていいよ~状態です。どんどんお買い物してちょうだい。」
「お友達の買い物に付き合って、ついで買いしちゃダメですよ。ちゃんと選んでくださいね。」
などと言って、ご婦人方に説明しています。
自由を手にした生徒さん達は、皆さん楽しそうに対局しています。

そんな中、ひとりのご婦人が
「好きなもの選んでいいと言われても、何を選んで良いか困る。」
と言ってきたのです。正直私はビックリしました。
普段の生活にあまり選択権のない私は、選択権=幸せ だと勝手に思っていたからです。
しかし実際は、選択権があるがゆえに迷いが生じ、決断に困ってしまうというわけです。
う~ん、贅沢な悩みです。

選択権があると、幸せに感じるときと逆に負担に感じるとき、確かにありますね。
たとえば食べ放題飲み放題などで、好きなものを好きなだけ選べるときは幸せに感じます。

しかし、仕事や進路などで選択権から決断を下すときは、言いようのない不安に襲われます。
選択権と言っても、この両者には大きな違いがあるわけです。
それは、物事の重要度の違いでしょうか? 答えは NO です。
なぜなら、あまり重要でもない?趣味の囲碁でも、両者の違いが存在するからです。
ある人は選択の自由を楽しみ、ある人は選択自体を負担に思っている。

これは面白い発見です。
選択には、幸せに感じる選択と負担に感じる選択の2種類がある というわけです。
この両者には一体どんな違いがあるのでしょうか。

それは、「選択に結果を求めるか否か」だと私は思っています。

結果を求めれば、選択権があることの幸せよりも、決断に迫られる不安の方が大きくなります。
対して、結果を求めなければ、決断は負担とはならず、選べる幸福感が支配するでしょう。

囲碁でも結果を気にし過ぎると、対局が、一手一手が負担になります。
楽しいはずの対局が苦しく感じている方は、もしかすると結果を追い求め過ぎているのかも?
重症になると、選択権自体を放棄してしまいます。
ある者は敵の従者になり、またある者は本や上手(うわて)のいうことを
盲信するようになります。自分で考えることを止めちゃうわけです。
良い手とか悪い手だとかにガンジガラメになって。。。

そんなの「全自動選択機」じゃないかい!  
※はい。このセリフが言いたかったです。

私の結論を言いましょう。

結果はどうでもエエから、さっさと選べい!  (子供みたいに)
それで碁がもっと楽しくなるし、自分で選択した手なら善悪はともあれ
体験的に学習できるから上達も早いよ。 (子供みたいに)

どうせなら幸せな選択にしようよ。選択自体を選択できるのだから。
 注:「幸せな選択のススメ 」 関兵馬著(予定は未定)

結果を気にし過ぎて疲れている方に、私からひと言だけ

「善は二の次。善は二の次。」

 

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