根本席亭ブログ 500人の笑顔を支える、ネット碁席亭日記 囲碁の上達方法やイベント情報など、日々の出来事を発信していきます。


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今から25年ほど前のある夏の日の午後のことだった。



お盆休みからずらして休みをとっている先輩が数人いて

まわりは空席が目立っていた。のんびり仕事の書類に

目を通していると机の内線電話が鳴った。



「根本君、君はもう夏休はとったかね。あっそう、

まだならちょっと僕の部屋に来てくれるかな」



鈴木さんの野太いしゃがれた声は、受話器から

少し耳を離していても聞こえた。顧問の鈴木さんは

61歳で新入社員の僕とは37歳離れていた。



―囲碁部の話かな。



仕事の話でないのはわかっていた。鈴木さんは

会社の囲碁部の部長で、僕は間もなく鈴木さんから

引き継ぐことになっていた。



「失礼します」

ノックして部屋にはいると、鈴木さんは大きな黒い革張りの

背もたれに身体をまかせて煙草をくゆらせながら

一枚の紙を見ていた。



「これを一緒に行きたいと思ってね」

日本棋院主催、日中アマ囲碁交流旅行のチラシだった。

JALのツアーで第二回とある。すぐに値段に目がいった。

7泊8日で46万円だ。



―無理だな。貯金もないし。



そんな気持ちを察したかのようにつづけた。



「君さえよければ飛行機代はワシが出してもいいんだ。

 JALのマイレージがたくさんたまっておってな」



がははと豪快に笑った。



「君のところの課長にはこのまえ話をしておいたよ。

根本君は10月後半に夏休みを取るよ、とね」



―えっそんな話がもう課長に!



僕の記念すべき社会人最初の夏休みが、

僕の知らないところで決まってるなんて。

おどろいて顔をあげるとすこしいたずらっぽさが

入った目とあった。



もう一度チラシを見ると、ただ囲碁を打つだけではなく

万里の長城や途中で西安に移動して兵馬俑など、観光も

もりだくさんの一週間だ。



―中国には行ったことないし、夏休みはまったく予定がない。

 面白いかもな。



「囲碁部のほかのメンバーはねぇ、みんな家族がおってな。

誘っても、『鈴木さん、囲碁を打つならもっと近くで打ちます。

中国に行くならもっと安く行きます』なんて言うんじゃよ」



―そりゃそうだわな。



僕は100名近くいる囲碁部の中で18年ぶりに入社(入部)

した新人でただ一人の独身だ。幸い、高段者なので他のメンバー

からかわいがってもらっていた。



入社面接のとき、第二外国語は?と聞かれて思わず「囲碁」

と答えたのが形勢逆転になったのを思い出した。

人事担当役員が囲碁部だった。



「お誘いありがとうございます。行きたいと思いますので

 よろしくお願いします」



その時の鈴木さんの嬉しそうな顔を今でもすぐ記憶の

フォルダーから取り出すことができる。



怒ると誰よりも怖いと社内でも有名な強面の顧問も、

僕にとっては大切な囲碁仲間のひとりだった。





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鈴木さんと一緒に中国に行くことが決まってから数日たつと、

その話は課内で広まっていた。



―うちの根本をよろしくお願いします。



課長もあわてて挨拶にいったらしい。

そんな大げさなことかと思うが、会社はそういう

ところだと知った。課長はちょっと嬉しそうだった。



新人が夏休みに顧問と海外旅行、というのは

思った以上に周囲に衝撃を与えた。



これじゃ釣りバカ日誌のスーさんとハマちゃんならぬ、

ス―さんとネモちゃんじゃないか、と先輩たちは

面白がったり心配したり。



こんなきっかけでも囲碁に興味をもってくれる人が

周囲にあらわれて、それは嬉しい誤算だった。



「えっ一親等?二親等?それはねぇ、一緒に行く根本君は、

家族のようなものなんだよ。わかるね。なにっ、権限がない?

ではこの話ができる人と、変わってもらえるかな」



ある時、鈴木さんの部屋に行くと、いつもよりさらに大きな声で

航空会社と電話で交渉していた。自分のマイレージを使って

僕を中国まで連れていってくれようとしていた。



「家族のようなものなんだ」



あたたかいセリフだ。

僕は直立不動で、電話が終わるのを待った。

熱いものが心に流れた。

今思えばこの瞬間に「友情」が芽生えたのかもしれない。



結局電話のむこうが4人目にかわったところで話はまとまった。

遊びの話も決して手を抜かず、ルールがあるからという理由だけでは

あきらめない。商社マンの交渉術を間近で学ぶ貴重な機会だった。



「さっきむこうの総大将にテレックスを打っておいたよ」



交渉の厳しい顔から一変、いつもの笑顔にもどった。

打ち出されたテレックス用紙を見ると、



「いつからいつまでそちらに囲碁を打ちにいくのでよろしく。

 Mr. Nemotoもいっしょに」



とある。宛先は中国支局の代表で常務だ。専務と常務の

どちらがえらいかまだわかっていない新人ながら、仕事の話

ではないのにこんな日中にいいのだろうかと心配になる。



テレックスはメールがない当時、海外支店とやりとりする

のに頻繁に利用した。毎朝課長が書いたテレックス文を

課に1台しかないパソコンでタイプするのは僕の役目だった。



料金が文字数で決まるため、英語の頭文字だけでやりとりする。

たとえば「ありがとう」は「TKS」で「本当にありがとう」

は「M(many)TKS」だ。



そのとき現地北京では、あの鈴木さんが来るということで

店の予約や車の手配、観光ルートの確認などが進んでいた。



同行の「Mr. Nemoto」は鈴木さんと2人で来るぐらいだから

相当親しく同年代と思われるものの、社内名簿ではそれらしい

人は見当たらない。ならば取引先の重役かだれかだろう、

という話で落ち着いていた。



本人はそんなことを知るよしもなく、間近にせまった

初めての夏休みをこころまちにしていた。





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社会人になって初めて知った言葉に「カバン持ち」がある。



どこから見ても新入社員というストライプのネクタイを

しめる僕は、恰幅がよく余裕をただよわせる鈴木さんの

「それ」に見えるにちがいない。



空港のツアー集合場所には、シニア男性が15,6名と

日本棋院の職員と棋士の信田六段、さらにツアコンの女性1名が

集まっていた。若い男性は僕だけだ。



「鈴木さまはいらっしゃいますか。お荷物お預かりします」



とつぜん本当にカバンを持ってくれる人があらわれた。

ツアーの担当者かと思ったが、航空会社の女性職員だ。

鈴木さんは手慣れた様子で荷物を渡し、僕も一緒にくるように

手招きした。わけがわからずついていく。



仕事で頻繁にニューヨークを行き来しているので

このエアラインのお得意様のようだ。ツアーなのにこういう

こともあるのだと感心する。



慣れない場所できょろきょろしながら、ラウンジで

静かなひとときを過ごした。



「根本君、この席ひさしぶりで愉快だよ」



20年ぶりのエコノミーだそうだ。僕にあわせてくださった

のかと最初勘違いをしたが、ちがう。機内で対局したいのだ。

狭いエコノミーのほうが隣同士の間隔が狭い。



僕は事前の指示どおり、マグネットの碁盤を機内に

もちこんでいた。



「もう水平飛行じゃろう。さっ早く、盤を出しなさい。盤を」



横を見ると、大変失礼ながらゲートに入ったばかりの競走馬

のようである。鼻息が荒い。早く走り出したくて仕方がないのだ。

機はやっと離陸してまだ1、2分しかたっていない。

窓の外は雲の中。体重がまだかなり背中にかかっている。



「えっ、まだ全然水平じゃないですよ。もう少し待ちましょう」



至極まともな返答をしたつもりだった。



「何を言っておるんだ。もう水平飛行じゃ」



語気が強くなった。囲碁で怒らしたら、日本で右に出る者はいない。

仕方がない。そっとトレーを出して碁盤をセットした。

横を向きながら離陸直後の機上対局が始まった。



「お客様、まだトレーは出さないでください。危険です。

  ただちにもとにお戻しください」



案の定、すぐスチュワーデスが飛んできた。

いい大人の2人が、小学生のように怒られた。



素直に小さくなっている鈴木さんの横で

僕は笑いを押し殺すのに必死だった。





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北京に到着した我々一行は、一夜あけた翌日に

まず天安門広場にむかった。



―こんな広い広場は観たことがないな。



そう思って当然だ。東西500m、南北880m、

世界最大の広場で50万人は集えるという。



偶然だが今日2019年6月4日は、あの事件から

丁度30年だ。訪れた1994年10月21日は

すでに5年が経過していて、事件の面影はまったく

感じなかった。



気持ちいい秋晴れのもと、棋院関係者2名、ツアコン、

現地ガイドを含めた21名が1枚の写真におさまった。

僕は前列右から2番目だが鈴木さんは後列左から5番目だ。



前回ふれたように、この旅は鈴木さんの中国支社訪問も

兼ねているため、途中ツアーとは別行動となって鈴木さんと

2人で動くことが予想された。



ツアーで動いているときはなるべく鈴木さんから離れて

他のメンバーと会話をするよう心がけた。みな自分の

親より年上だが、せっかくなので知り合いを増やしたい。



広場にある毛主席紀念堂に向かう。18年前に亡くなった

毛沢東の遺体がいまだに警備数人に守られ巨大なガラスケースの中に

安置されている。



国家の威信をかけた技術のたまものだろうか。まるで昨日から

眠っているようだ。ここは日本ではなく、中国、社会主義国で

あることに気づく。



さてこのツアーはこうした観光も盛りだくさんながら、

もちろんそれがメインではない。貸切バスで市内にある中国棋院、

中国における囲碁の総本山にむかう。



途中の車窓からは、団地の一角で卓球を楽しむおばさん達が

目にとまった。風がふく野外で卓球をしている。その風を

ものともしないラリーが白熱していて、球の速さが日本の

温泉卓球の比ではない。草野球ならぬ草卓球だ。



こりゃ中国の卓球が強いわけだ。

はじめての中国は観るものすべてが新鮮だった。





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話は前回より一日前、我々一行が北京についた日にさかのぼる。



ツアーの宿泊先は乗ってきた航空会社が運営する日系ホテルだ。

フロントでもロビーそばの売店でも普通に日本語が通じる。



部屋は鈴木さんと同室となった。ミニ冷蔵庫をあけてみて驚いた。

コーラが¥20、ビールは¥30とある。



「さすが中国ですね。びっくりするぐらい安いです」



鈴木さんに話かけるもすぐに間違いに気がついた。

中国の通貨「元」も記号が¥なのだ。

円と同じく発音がもとになっている。

日本円にするには14倍しないといけない。



夕食は中国側を代表する陳祖徳九段らと一緒だった。



「根本君はこっちに座りなさい」



レストランにはいると、どこに座るか逡巡する他のメンバーとちがい

鈴木さんはすぐに陳九段をはさむように席をとって僕を呼んだ。

テーブルは中国なので大きな円形だ。



陳祖徳九段。

中国の囲碁事情に詳しくない僕でもその名前は知っている。

中国棋院の院長であり中国囲碁会のレジェンドだ。



中国ではじめてプロになり、はじめて日本の九段を互先でやぶり、

そしてあの「中国流」を創った。



サッカーファンがペレと食事をするようなものなのだが、思ったほど緊張しなかった。

陳九段の流暢な日本語と穏やかな語り口、何より謙虚な人柄が

自然とそうさせたにちがいない。



名刺交換では、印刷された名前の横にその場でサインをしてくれた。

日本のファンを歓迎するこうした陳九段の細やかな気遣いは、数日間の滞在中

ずっとかわらなかった。



勧められるがまま紹興酒をあけたので、弱い僕はあっという間に赤くなる。

当然酔っているはずだが、そんな自覚もないほど感激の夜になった。



部屋にもどりテレビをつけるとサッカーの試合結果を放送している。

どうやらスポーツニュース番組のようだ。



次の瞬間、目を疑った。

囲碁が放送されている。今日の対局結果とその様子の映像だ。



ーあれっスポーツ番組じゃないのか。



そう思うのも無理はない。だが囲碁のあとは卓球と続いた。

ここ中国では50年以上前から、囲碁は正式な体育、つまりスポーツだ。

日本だと身体を動かすものがスポーツとよばれるが、ここでは頭も体の一部ということだろう。



そう、僕はスポーツ交流をしに北京まで来たのだった。





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2日目は天安門広場の観光のあと、中国棋院で早速対局だ。

まず1局目は、日中アマ親善交流として中国のアマチュアの方が相手だった。



碁石は日本のものを横でスパっと半分に切った形をしている。

表と裏があって片面は楕円ではなく平らなので座りがいい。

打つとパシっと音がする。



当初、半分の材料で済むのでこうした形になっていると思ったが違うようだ。

局後の検討のとき、実際に打った石と想定図の石をそれぞれ表と裏で

区別しておけば、さっと元に戻せる。合理的な考えだ。



手、つまり着手で会話する意味から囲碁のことを「手談」というが、

その言葉どおり言葉が通じなくても対局はなんとかなった。

僕の相手はとても強く、僕はいいところなく負けてしまったが、

局後の検討では丁寧に教えてもらい楽しいひとときだった。



2局目は、中国のプロに指導碁を打ってもらった。指導する棋士は皆中国の

トップ棋士で、このツアーを歓迎する気持ちが伝わってくる。

僕は華以剛八段と3子、鈴木さんは有名な馬暁春九段と5子で2人とも

勝てなかった。日本語が話せる中国棋院の棋士が局後の検討に参加して

くれたおかげで、盤上でも中身の濃い時間を過ごすことができた。



夕方、いったん宿に戻る。予定表では夕食は中華料理の名店なのだが、

今夜は会社の中国総局のメンバーと鈴木さんが会う約束をしていて

僕もツアーとは別行動になった。



2人でホテルのロビーで待っていると玄関前に黒のベンツが2台停まって

中から人が降りてきた。同じアジア系の顔ながら一目で日本人とわかる。



「やぁ千葉さん、久しぶりじゃのう」



急に顔をほころばせた鈴木さんが大きな声で話しかけた。

中国代表の千葉常務だ。ほかにも2人いる。



「鈴木さんお元気そうですね。お久しぶりです」



簡単な挨拶をしている間、僕は鈴木さんのすぐ横で待っていた。



「ところでMR.NEMOTOはどちらです?」



自己紹介のタイミングをはかっていてずっこけた。

まさか顧問の鈴木さんがこんな若者と一緒に来るとは

思ってもみなかったのだろう。

僕はツアーの世話係だと思われていた。



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天安門広場に通じる北京の大通りは、日本のそれとはだいぶ印象が違う。

まず幅が広い。片側7、8車線はあるだろうか。そして自転車が多い。



北京に到着した翌朝、寝ぼけまなこで部屋のカーテンをあけたとき、

最初眼下に川が流れているかと勘違いした。眼鏡をかけてよく見ると、

同じ方向に同じ色彩の服をきて走る何百台という自転車だった。



その自転車をよけるように車、そして大型バスが走る。

バスといっても日本の路線バスの2台分が連結されていて、

しかも超すし詰めだ。1台に150人は乗っている。活気あふれる

というより、みな全力で動いている。生きている。



鈴木さんを迎えにきた会社の車は、大通りを縫うように進んでいく。

遮音性の高い高級車の車内からは、外の様子が別世界のように見える。



「まさかMR.NEMOTOが今年入社した新人とはびっくりですよ」

「そうかのう、言ってなかったかのう。根本君はわが囲碁部で実力

トップクラスのホープなんじゃ。がははー」



中国総代表の千葉常務と鈴木さんが後部座席で旧交を温めるのを

助手席で背筋を伸ばして聴く。



ほどなくレストランに到着して5名での会食が始まった。

5名といっても、実質は4プラス1だ。

円形テーブルの話題は、中国の情勢、会社の経営の話に終始した。

話に耳は傾けるが、中身はまったくわからない。

もちろん意見を求められることもない。



自然と僕の興味は、次々と運ばれてくる本場の中華料理に移った。

格別美味な上海ガニを食するのに手間取ったため、それほど

退屈することなくこの時間を楽しめたのはよかった。



食後に鈴木さんを囲んで写真を撮ってもらう。



この10年後、商社に勤務しながら結局一度も駐在することなく「石音」

を起業する道を選んだ僕には、駐在員との交流を記念する貴重な1枚となった。



もちろんそのときは、そんな未来が待っているとは知るよしもなかった。





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宿泊している日系のホテルではフロントでもショップでも

日本語が通じた。ここの従業員は日本語が出来ることが

条件になっているようだ。



着いたときから気になっていたフロント脇のショップに

入ってみた。



「お兄さんは日本のどこの人ですか?」



僕より若いと思われる女性店員から話かけられた。

東京だと答える。



「お兄さんは怪しい上海の人に見えます」



想定外の返しでずっこけた。こういうとき相手に興味をもって

会話をはずませるのが自分の特徴だ。



「どこが上海なの?何であやしいの?(笑) それにしても日本語うまいね」



顔立ちと背が高いところだという彼女達の説に説得力はないが、

そんなことおかまいなしにすぐに3,4人の店員に囲まれて

質問責めにあう。暇つぶしの恰好の相手があらわれたということらしい。



ハルピンの日本語学校で学んだという日本語は、発音も

イントネーションも正確で驚いた。ぼろぼろになった日本語の教科書が

ショーケースの下から出てきて、単語の意味を聞いてきた。

即興の日本語教室が始まった。



北京滞在の4日間、このショップには何度も足を運んで店員とは

皆名前でよぶほど仲良くなった。ツアーメンバーは自分の親より年上の人

ばかりなので、同世代との会話が楽しかった。



朝食後、近くの小さなデパートにも足を運んでみる。

デパートと思ったが、ワンフロアに30ぐらいの小さな店がひしめく

屋台村だった。客引きが盛り上がっている。



ぶらぶらしていると、ジーンズがたくさん天井から下がる店で

きもったま母さん風のおばさんにつかまった。



「お兄さんこれリーバイスよ、安いよ」



つり下がるジーンズのひとつを手にとって僕に見せる。



試しに、いくら?と中国語で聞いてみる。練習してきた中国語のひとつだ。

返答を聞き取れる自信はないが、おばさんはニコリともせずに

電卓をだして数字を見せた。500元、日本円にすると7千円だ。



最初からジーンズを買うつもりはないので、不要(ブヨ)と答えて

立ち去ろうとした。そうすると、また僕の袖をひっぱり電卓を見ろと

ジェスチャーをする。数字が400になっている。



―やはりな。こういう場所では値切るのが常識だからな。

 ほれ2割さがった。



そう思うもこちらは買う意思とお金、語学力の3つがぜんぶ足りない。

また立ち去ろうとすると今度は数字が300になった。



―あれっおかしいな。確かにリーバイスってラベルにあるけど

 中古品か不良品かな。



別の興味が沸いたが、ますます買うわけにはいかない。

隣の店にいこうとしたとき、おばさんは驚くべきひとことを発した。



「まったくもう本物のリーバイスなのよ。じゃあ100元でどう?」



―自分で言ってることがわかってるのかな…



心の中で爆笑だ。

手にはいつの間にか天井から取り外したリーバイスがある。

ものの5分で8割引きになってしまったが、本物だと真顔で主張する

おばさんの顔をみているうちに買ってみようという気になってきた。



試着室のような洒落たものはもちろんないので、その場で長さだけ

あわせて100元で「本物の」リーバイスを買うことになった。



あとで知ったがこの建物は有名な巨大偽物市場だった。

買いにくる人もわかって買っているので問題にはならないそうだ。



それはさておき、ホテルに戻りすぐ試着してみる。

サイズはぴったりで切る必要はない。



―1400円ならいい買い物だったかな。やりとりも楽しかったし。



そう思って脱いでいるとき、チャックの上部にあるボタンが

ポロリと取れた。





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ツアー3日目の日中は北京郊外への観光だった。



バスにゆられて90分、明の十三陵とよばれる明の皇帝の

陸墓群についた。第三代永楽帝の墓もある。

着工から完成まで200年、広さは40kmにも及ぶというから

日本とは規模が違う。新宿から八王子まで延々と13人の墓が

並んでいるようなものだ。



次に万里の長城に向かう。北京からは一番メジャーなもので

八達嶺(バーダーリン)長城だ。10数年後、同じく北京郊外

の別の長城に足を運ぶことになるが、そこは幅が1mほどで、

草が背丈ほど生え放題であちこち崩れていた。裏山のがけといった

風情で誰も歩く人はいない。長城と言っても様々なものがある。



ここの長城はもともと馬が4頭横並びで歩けるように造ったもので

広い中国で一番有名な観光地ゆえきちんと整備もされている。

写真でよく見る光景が広がっている。観光地に来ると自然と確認

してしまう、「写真でよく見る光景に会えた」満足感はあった。



だがこの長城より印象に残ったことが3つある。



到着の少し前、車窓から奇妙な看板を目にした。

万里の長城が建設中とある。修復中ではなく建設中だ。

なんと、観光のピーク時にさばききれないため、近くにもう一つ

「新品の万里の長城」を造っていた。これには仰天した。



日本のGWにあたる労働節とよばれる休暇には、近くの高速道路は

延々10kmも路駐のバスが並ぶという。混雑緩和という目的で

遺跡を新たに造ってしまう発想には驚いてしまう。



同じく車窓から、山に大きく掲げられた「緑化運動推進中」の看板が

見えたとき、少し違和感があったので目をこらしてみた。

こちらはなんと、岩肌を緑のペンキで全面に塗っている。

ガイドに聞けば、これも本気で「緑化」を推進しているのだという。

たしかに禿げた茶色が広がるよりは見た目は麗しくなるが、これも

発想の飛躍なのか、それともここではこれが普通なのか。



そして長城の観光をおえてバスに戻ると、長城の絵がはいった

Tシャツを手にした売り子たちが窓の下に集まって連呼した。



「これ千円、1枚千円、安いよ。日本円でいいよ」



日本語である。誰かが窓をあけたら、彼のボルテージはさらに

あがった。勢いに負けて財布から千円札を出すのが見えた。

すると、となりの売り子が2枚で千円と言い出した。



車内は点呼が始まり間もなく出発だ。エンジンがかかる。

買った人が隣の人にちょっと自慢気にTシャツを見せている。

まぁ千円だったらいいんじゃないか。そんなやりとりが

かわされたそのとき、この人に売ったばかりの売り子が

大声で叫んだ。



「20枚で千円!」



―なに!1枚50円か。



後ろの席から様子をうかがっていた僕は噴き出した。



「おい、1枚千円で買っちゃったよ…」



買ったシニアの悲痛な声に、車内は爆笑に包まれた。





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3日目の夜はツアーメンバーと北京ダックの「全しゅ徳」だった。

現在は新宿や銀座にも支店を出している北京随一の歴史を誇る名店だ。



ローストしたアヒルの皮を食べるのは知っていたが、薄い生地で

はさんで一緒に食べる食材の種類の豊富さに驚いた。前夜とちがい、

他のメンバーと会話をしながら本場の味を楽しんだ。



昼間がっつり観光をしても、ここ中国には囲碁を打ちにきている。

夜はホテルの一室がずっと対局ルームとして開放されていて、

毎晩日付がかわる頃まで打ち続けた。



中国棋士で日本語堪能な王さんは、夜も指導や検討につきあって

くれた。僕と鈴木さんはいつも一番遅くまで熱心に指導を受けた。



囲碁は中国で4千年前にうまれたと言われる。

さきほどのダックもそうだが、これが「本場の力」というものか。

ここにきてわずか3日で腕が少しあがった気がする。少し冷えていた

囲碁熱も再燃した。



その晩、僕の対局が終わったのが0時半頃。ふと横を見るといつの

まにか鈴木さんがいない。さすがにもう疲れて先に寝ているのだろう。



そう思って部屋に静かに戻ると、部屋の電気はついていて

テーブルにマグネットの碁盤がきちんとセットされていた。



「さて根本君打つかね」



笑顔でビールを飲みながらこれである。

限界を越えろということか。



一週間の旅行中、毎晩2時すぎまで囲碁漬けだった。

とても還暦を過ぎている人とは思えない。

商社マンの体力は恐ろしいものだった。





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ツアー後半には北京から西安に移動した。



国内移動なので飛行機は小型で高度もそれほど高くはない。

眼下に見える中国国土の景色を夢中で楽しんでいると

あっという間に到着した。



西安には秦や漢、隋や唐など歴代の中国の都「長安」が

おかれた。唐の時代に長安は世界一の都市でもあった。



着いてまず目についたのは、市内を取り囲む城壁だ。

600年ほど前につくられた当初の姿のまま現在も使われている。

こちらも古城壁としては世界一の規模で周囲が13.7キロにも及ぶ。

皇居の3倍だ。



北京では中国棋院にいって現地の人やプロと打ったりして、

囲碁の合間に観光、だったが、ここでは観光の合間に囲碁、と主従が

逆転した。色々なものを見て回りたい僕にはありがたかった。



兵馬俑ではまずその規模の大きさに衝撃をうけた。

奥行が200mはありそうな巨大な体育館に案内された。



おそらく発掘現場の上に建物をつくったのだろう。

僕と同じぐらいの大きさの兵士たちが何千体と並んでいる。

みなそれぞれ顔や持ち物が違う。



1974年に偶然発見されて20年がたった今も発掘が

続いている。ほかにもいくつか発掘現場があって、いま

掘り出している最中の様子も間近で観ることができた。



ここ西安はシルクロードの起点だ。そしてこういう文化

と文化が出会う場所は食事が美味しいと相場がきまっている。



昼には小麦の麺にイスラムの香辛料がはいったものと、

冷えてない青島ビールを楽しんだ。



「根本君、ちょっとそこの門のところに立ちなさい。

 写真とってあげるから」



午後の自由行動の時間には、鈴木さんと2人で西安大学にまで

足をのばした。



鈴木さんは自分の写真はさておきなるべく僕を写して

くれようとした。囲碁のときはのぞいてだが。



「根本君、いまのは何だね」



目の前をかなりのスピードで自転車が走り去った。

よく見ると自転車のおじさんは両足を宙に浮かしている。

こいでいないのにペダルが猛烈な勢いで回転している。

ここは坂道ではない。



「何でしょうか。原付バイクに自転車のペダルがつい

 たようなものですね。でも何でペダルが…」



遠目に見てもペダルの猛烈回転がユーモラスだ。

免許をもってない人の苦肉の策なのだろうか。



談笑しながら小1時間歩きまわったが、他人からは37歳違う

僕らはどう見えるのだろう。そう思うと少しおかしくなった。



親子にしても会社の上司部下にしても歳がはなれすぎている。

もちろんおじいさんと孫ではない。



今おもえばそのとき鈴木さんと僕は、ただの「友達」だった。



もとより盤上では友達同士のように囲碁を楽しんでいたが、

ここ中国にきてそれが盤外にも飛び火した瞬間だった。





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37歳離れた「スーさんとネモちゃん」の中国囲碁旅行は、

いったんはじまったら途中から時間がぐんぐんスピードを

あげてすぎていった。



帰りの飛行機では、マグネットの碁盤をトレーにおいて

隣同士で対局に没頭した往路とはちがって、2人とも

目を閉じてしずかに過ごした。



隣からはかすかに寝息が聞こえるが、僕は心地よい疲れを

感じながらも眠ることはなく、旅の印象的なシーンを

思い返していた。



離陸直後に対局を始めた僕らが、すぐにスチュワーデスに

怒られて小さくなったこと。



鈴木さんのおかげで現地の駐在員に歓待されるも、歳が

離れすぎて僕がMR.Nemotoだと気づかれなかったこと。



中国囲碁界のレジェンド、陳祖徳九段の隣で夕食と会話

を楽しんだこと。



その時はもちろんだが、四半世紀が過ぎた今でもどれも

はっきり思い出せる。



旅は家につくまでとはよく言ったもので、今回は成田空港に戻って

おしまい、とはならなかった。



「えっ根本君は車で来てるのかね。それじゃねぇ、

   申し訳ないけど家まで送ってもらえるかな」



空港まで自分の車できていたので、大船にある鈴木さんの自宅まで

送っていくことになった。だいぶ遠回りになるが、面倒ではなかった。

どこかでもう少しこの旅を続けていたいと思ったのかもしれない。



飛行機の隣の座席や、対局しているときも互いの距離は近いのだが、

マイカーの空間はひとあじちがった。



それは、不思議と心地よい緊張感をともなう近さだった。

きっと、この一週間、寝食と盤上盤外を一緒に過ごしたからだ。



あのときは愉快だったなぁ。あれは美味しかったのう。とつづく

感想のやりとりが、車が鈴木さんの家に近づくにつれて、そして旅が

ほんとうの終わりに近づくにつれて、どんどんボルテージを

あげていった。



玄関から出てこられた奥様に初めて挨拶した。

温和な表情と語り口のむこうに芯の強さがうかがえる方だった。

鈴木さんに聞こえないように声のトーンを落として言った。



「楽しい旅行だったようですね。主人の顔を見れば

   わかりますよ」



奥様の目が少しいたずらっぽく笑った。

言われてすこし嬉しくなった。



囲碁という不思議な魅力をもつ道具によって、ふだん

経験できないような旅ができたことは幸せだった。



思えば仕事中の一本の内線電話から始まった、

僕の「最初の夏休み」が終わった。 



ー最初の夏休み(完)ー



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もう二度とここには来ないだろう。

そんな場所に行くこともある。



そこについ二度行ってしまった。

そんなことが起きることもある。



北緯71度、北米大陸最北端の町、アラスカのバロー。

あと東京から鹿児島ぐらいの距離で北極点というところに

エスキモー4千人が暮らしている。



1993年と98年の2月、マイナス40℃をしばしば下回る

極寒の季節にここを訪れた。

旅の醍醐味、非日常を楽しむには最高の季節、最高の場所だった。

自然が厳しい場所では、その分、人があたたかかった。



最北端のバローに行く前、アラスカ中心部のフェアバンクスという町にいた。

アラスカの玄関、アンカレッジから12時間かけて電車でやってきた。



最初の日、宿のおばさんに「今日は暖かいわね」と言われて、

聞き間違えたと思った。温度計はマイナス18℃を示していた。

一週間たった今、少し慣れたのだろうか。

「そうだね、昨日よりちょっと暖かいね」と返す余裕が出てきた。



「おい、何してるんだ」

橋の上から声がかかった。地元の親子連れだ。

深夜1時、僕はフェアバンクス市内の凍った川の上を一人で歩いていた。

怪しい奴に思われたに違いない。

僕はできる限りの笑顔で答えた。



「オーロラを探しているのです」

橋の上の親子が何やら話している。アドバイスをくれるのだろうか。

「ごめんな。彼女がどこに住んでいるか知らないんだ」

意味が分からなかった。誰の住所も聞いていないのだ。



その夜オーロラは現れなかった。

一晩に1、2回、1回15分から30分の天体ショーだ。

出会うのは簡単ではない。



翌朝、朝食を食べながら、昨晩のことを宿のおばさんに話した。

オーロラがここではノーザンライツと呼ばれていることを知った。

部屋に戻ると、果物がいくつかはいったカゴの上にメモが置いてあった。



『HELP YOURSELF TO』



これはたしか「ご自由にどうぞ」のはずだ。

ぽっと心が温かくなった。



翌日、太陽の光がまぶしく輝くなか、バローに向かう

30人乗りの小型飛行機に乗り込んだ。

フェアバンクスより北は陸路がないから飛行機でいくしかない。



アンカレッジ、フェアバンクス、バロー。徐々に北に向かっている。

緯度が高くなるのと僕のテンションが高まるのが、見事に調和した。

飛行機の高度はそれほど高くなかった。



すぐ眼下には凍てついた荒涼とした大地、ツンドラが広がっていた。

目に入るすべてが白かグレーで、緑は皆無だった。





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バローに着いてさっそくぶらり散歩にでかけた。



いや、違う。

外はマイナス30℃、風速10mで体感マイナス40℃の世界だ。

とても「ぶらり」とはいえない。

町を必死の思いで歩き回っていた時のことだ。



「今日はどこで集会やっているのかしら」



突然、アメリカ人女性の観光客に話しかけられた。

どうやらエスキモーと間違えられたようだ。

日本人ですと答えると、まさかと返された。

なぜかすこし嬉しくなった。



日本人とエスキモーは人種的に従妹だそうだ。

アリューシャン列島が陸続きだったその昔、モンゴルを

出発してアラスカに渡ったのがエスキモーだ。

同じ物を表す言葉で、日本の古語の発音とエスキモー語の

発音が似ているものもあるという。



エスキモーは、氷の家に住んでアザラシの生肉を食べると

本で読んだ。実際は天然ガスで温められたコンクリートの

建物に住んでいた。



アザラシの肉は、見た目は生だが生肉というわけではなかった。

一旦外に放置して完全冷凍したものを解凍していた。

火で焼くのと逆だが、こういう殺菌、加工もあるのだ。



物干竿にはどの家も白い毛布が干してあった。

が、よく見ると毛布ではなく白熊の毛皮だった。

ここは北海道ではなく北極圏だ。



太陽は午前10時すぎにようやく顔を出し始めた。

顔は出すが全く昇らなかった。

凍った北極海の上をゆっくり横にすべっていく。

そんな太陽に出会うのはもちろん初めてだった。



目の前がキラキラと輝き続けた。

これが噂のダイヤモンドダストだと少したって気づいた。

吐く息がその場で凍ってゆっくり落ちるのが見える。

防寒マスクをかぶった口や鼻の周りにすぐ薄い氷が張った。



一瞬、一瞬、全てが非日常だ。ワクワクの鼓動が止まらない。

僕は理由もなく、ただ、大きく叫びたい衝動にかられた。



ランチが終わるともう夕焼けだ。

太陽は午後2時すぎには沈んでしまう。

沈む直前の太陽は丸ではなく四角に見えた。



ホテル勤務のエスキモーのトニーが、ジープで案内してくれた。

(トニーとは5年後、またここで再会した)



町のはずれには、大きくブロック状に切り取られたクジラの肉が

いくつか無造作に置かれていた。これは白熊へのメッセージだ。

ここまでは来ていいよ。この肉も食べていいよ。

ただここから先、町に入ってきたら銃で撃つよと。



人間と白熊がこのやり方に辿り着くまでにどれだけの時が流れ、

どんなやりとりがあったのだろう。かちこちに凍ったクジラ肉の

赤身を持ちあげながら、ふと思った



帰り道、トニーが途中で車を停めた。あそこを見ろと指差した。



1キロ以上は離れているだろうか。

見渡す限り一面凍った北極海の上を、何か白い点が動いていた。

借りた双眼鏡でようやくわかった。白熊の親子だった。



数分後、今度はトナカイがすぐ横をゆっくり歩いていった。

7頭の家族だった。吹雪のなかどこに向かうのだろう。

こんな氷だけの世界で何を食べるのだろう。



その夜トニーはまたジープで北極海に連れていってくれた。

車のライトを消すと、吸い込まれそうな巨大な暗闇が

急に眼のまえに広がった。



やがて、これ以上散りばめるのが難しそうな星空と

真っ黒な凍った海との境目付近に、白い竜が現れた。

すぐに天空に舞い上がり、次第に黄色や緑の色味が増した。

オーロラだった。



音が聴こえてこないのが不思議な気がした。

15分ほど立ちつくしたあと、われにかえると

手足の先の感覚がなくなっていた。



アラスカに来てもう3週間だ。

非日常に少しずつ慣れ始めた自分がいた。



極北の町、アラスカのバロー。

ひょっとして三度目もあるかもしれない。



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昨秋の東山魁夷展、ある絵の前で足がとまった。



ずっと遠くまで道がまっすぐ続いている。

なぜ「道」を題材にしたのか、何を伝えたいのかはわからないが、

不思議とその絵に魅せられてしばしたたずんだ。



気づくと僕は、絵の鑑賞時間から勝手にはなれ、タイムスリップして

自分の世界にはいっていった。



**********************

こどもの頃から地図が好きで、暇があれば地図帳を本棚から

取り出してぱらぱらと眺めた。



今のように検索できないのがよかった。



日本で一番低い山とか最も長い駅名とか、

目をさらのようにして5歳下の弟と競争して探した。



これは地図をいくら見てもわからないことなので

きっと誰かから聞いたか本で読んだのだろう。



自宅そばの駅、「東中野」があることで日本で2番目

(いまは3番目)とわかってびっくりした。

それは、まっすぐな「直線鉄道」ランキングだ。



東中野から立川までの25キロ近くが直線らしい。

1番が北海道の室蘭なのは納得だが、その次が都会の東京になるのも

意外だった。



ある時、東中野の駅から目をこらして西を見た。

はるか向こうに三角形のサンプラザと中野駅らしきものは見えるが、

その先はもちろん見えない。



本当にずっとまっすぐなのか。

なぜこんな都会で直線ができたのだろう。



何を読めば、誰に聞けば答えがわかるかも、簡単にはわからなかった。

自分で考えても答えはでてこなかった。



いつしかそんな疑問も関心も、記憶のすみっこに

おいやられていた。



数年後の地理の時間のことだ。

先生が放った一言が、雷鳴のような響きをもって僕の耳にとどいた。

頭の隅でほこりをかぶっていた記憶が呼び覚まされた。



「ここには世界最長の直線の線路が通っています」



オーストラリアの南部、アデレードとパースの間に、

世界でもっともまっすぐな線路があるという。



その長さは東中野―立川のなんと20倍、

距離にして東京から京都ぐらいまでずっとずっとまっすぐだ。



先生の一言から、僕の頭の中では授業そっちのけで

「浪漫飛行」がはじまった。





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大学生になって最初の年があけた頃、20歳にして

人生初の海外旅行のチャンスがやってきた。



海外も一週間以上の旅行も一人旅も、全部「初」だ。



東海岸のシドニーからはいって西海岸のパースまで

全23日間の日程で、往復の航空券と旅の後半に乗る

「ある列車」以外は事前に何も予約しなかった。

いわゆる放浪の旅だ。



1991年の春はちょうど湾岸戦争が始まっていて、

卒業旅行の行く先を皆海外から国内に変えていたが、

両親の心配をよそに僕は単身豪州にむかった。



「いつどこに泊まるか書いていってね」



母から言われて、最初の3泊はシドニーのホリデーインに

泊まるがそのあとは未定だと嘘をついた。

シドニーにホリデーインが在るかは調べなかった。



勢いだけでシドニーの街中にきたものの、知っている英語の

イントネーションと少し違う。急に不安になった。

見たことのあるマクドナルドのマークにすいよせられるように

はいり、オレンジジュースを飲んで一息ついた。



さてどこにいこうか。

「地球の歩き方」にたよって、安宿がありそうな場所にむかう。



キングスクロス。



南半球最大の繁華街だという。

歌舞伎町をイメージしたが、規模は小さく、昼間は

ふつうの静かな商店街だ。



駅をあがって通りを歩くとすぐに呼び込みの声がかかった。

バックパックを背負っているので旅行者とわかるのだろう。



「3泊するなら1泊15ドルでいいよ」



耳を疑った。1泊千円ちょっとなのは貧乏旅行にはありがたい。

もちろんこのときは、この旅でこれより高価な宿には1度しか

泊まらないとは知るよしもない。



通りに面した金属の扉をあけて階段をあがっていく。

綺麗とはとてもいえない外観なので少しドキドキする。



リビングルームには大きな冷蔵庫とキッチンがあった。

共同で自炊をしながら長期滞在する旅行者専用の宿だ。



3泊の代金、45ドルを払うと、枕カバーとシーツを

渡されて部屋を案内してくれた。



「ハロー」

いきなり面食らった。金髪で綺麗な女性が笑顔で声をかけてきた。

ベッドにすわってリュックに荷物を詰めていた。

まさかと思ったが、僕のベッドは彼女の上だった。



「ソーリー」

彼女は僕がこれから上にあがる階段に干してある

下着などの洗濯物をはずした。



旅行者の「世界標準」に驚いているのはさとられたくない。

僕は世界30ヵ国を旅してまわっているトラベラーのように

軽く笑顔で挨拶した。



男女共同の6人部屋で、全員海外からの旅行者だ。

ほかのベッドも皆うまっているようだが、

昼間で外出中のようだ。



ー海外初日の宿としては悪くないじゃないか。



その夜、ちょっと下を気にしながらベッドに横になって考えた。

明日からどんな旅になるんだろう。

いつどこに誰といこうと、全部自由だ!



単なる無計画とは違う。

こういうのを計画的な無計画、っていうんじゃないかな。

そう気づいたらおかしくなった。



時差はないといっても、初海外の緊張と

日本と正反対の季節で少し疲れたのだろう。



さっそく壮大な無計画をたてていたが、

知らぬまに心地よい眠りについた。





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豪州一の繁華街、キングスクロスの安宿を拠点に

旅の2日目からあちこち歩き回った。



生まれて初めての外国だ。

通りすがりの人もふつうの店もすべて輝いてみえる。



ガイドブックを3分おきに開きながら、まずオペラハウスにむかう。

そして遊覧船でハーバーブリッジを巡った。



たまたま席がとなりになった若い女性と、簡単な挨拶から

会話を楽しむ。授業以外で外国人と会話するのも初めてだ。



でたらめな英語ながら、太陽と海風と笑顔の力で

意思疎通は何とかなっているようだった。



地方から出てきてシドニーの大学に通っている彼女は、

今日半日だけのオフを利用してクルーズを楽しんでいた。

下船前に記念に2人で写真をとってもらった。



夕方宿に戻ると、2人の男性と1人の女性がリビングで談笑していた。

女性は僕のベッドの下の住人だ。

新入りなのでちょっと緊張しながら自己紹介した。



ここに1ヶ月滞在しているという、恰幅のいいカナダ人男性は言う。



「日本人も時々泊まりにくるけど、1人は珍しいね。

たいてい2、3人のグループだから」



1人で旅をするとほかの旅人と仲良くなるチャンスは

増えるのかもしれない。



僕にクッキーをくれたのは、アイスランド人のジョードだ。

旅をはじめてもう3ヶ月になるという。



くれたのは1枚だったが、そのあと何気なく勝手に手を伸ばした

何枚かのクッキーは、じつは彼の夕食だった。

夕食を誘うとこう言った。

「僕はいま済ませたよ」

「できるだけ長く旅をしたいからね」

ひとそれぞれ事情をかかえながら旅を楽しんでいる。



ビールを1缶くれたカナダ人は、さっきから凄い勢いで缶を空けている。

いったい毎晩どれぐらい飲むのだろう。

「さあね。数えてないけど、20缶ぐらいかな」

つまみもなしに7リットル。信じられない。



下のベッドの住人、スウェーデン人の女性は、

まるで今日の天気の話のように言った。

「Hi、AKIRA、明日いっしょに映画いかない?」



自己紹介からまだ3分たっていない。

冗談かと驚くが、ちょうどいま誰か一緒にいかないかと

話をしていたところのようだ。



クッキーの夕食、1晩20缶、いきなり映画。



小気味よくショックがふってくる。

こういうのを旅の醍醐味というのだろうか。



いや、まだ序の口だった。





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AKIRA!踊りにいこうぜ。



夕食のあとリーダー格のカナダ人が誘ってきた。

新たにイタリア人男性とオーストラリア人女性が加わり、

宿のメンバー6名で近くの立ち飲みBARに繰り出す。



店の名は「TABOO」。

その名のとおりちょっと怪しげなネオンが輝く、

入場料のいらないディスコのようなところだ。



2本目のコロナビールを片手に、宿の仲間の輪にはいって

軽く体を動かしていたとき、ひげ面で190cmぐらいの

大男が話しかけてきた。



「おい、お前どこから来たんだ?」



店内は大音響なので近くでも大声になる。

地元の常連でかなり酔っているようだ。

言葉や態度から、旅人同士の最初の挨拶とは違う空気を感じる。

あまり関わりたくないので、シンプルに日本とだけ答えた。



「なんだ。日本人のくせにでかいじゃないか。」



こちらもほろ酔いだったこともあって、軽くカチンときた。

たいして話せないのに咄嗟になぜか場にあったフレーズが

口をついて出てしまう。



「関係ないだろ!(not your business)」



その瞬間、不意に彼のパンチが飛んできた。



中学生の頃、学校で見にいった映画「ガンジー」で若い頃の

ガンジーに似ているからと「マハトマ君」とあだ名がついた。

だからというわけではないが、僕は非暴力主義だ。

といえばかっこいいが、もとより腕に自信はない。



足元がおぼつかなかったのか1発目はさいわい横にそれた。

即座に僕の右にいたアイスランド人のジョードが間に

とめにはいった。2発目を繰り出そうとした彼に笑顔で

何か話しかけている。



ーこういう時にぱっと笑顔がつくれるのは凄いなぁ。



変なところに感心する間もなく、ほかの仲間も次々にやってきて、

一瞬緊張がはしった空気を笑いでふきとばした。



この小事件のおかげで僕ら宿仲間6人の結束はいっそう強まった。

日付がかわる頃まで楽しい宴は続いた。



翌日、朝からベッド下の住人、スウェーデン人女性オアサ

とでかける。天気がいいので映画は明日にして、今日は

電車で2時間ほどの「ブルーマウンテンズ」に行くことにした。



大きなバックパックを宿においてきて身も心も軽くなった。

オアサと2人、向かい合わせの席で談笑する。

ときおり、流れる車窓に目をむける。サングラスはかけたままだ。



「豪に入っては豪にしたがえ」

そんな文字が頭をよぎりひとりおかしくなった。

初の海外でまだ3日目の、旅の初心者には見られないかもしれない。



珈琲で有名なブルーマウンテンはジャマイカだが、

「ズ」がつくこちらはシドニー郊外の景勝地だ。

残念なことに現地につくと天気が急変して一面霧の中だった。

看板にはここが「エコーポイント」とある。晴れていたらスリーシスターズ

という3つの奇岩が見える絶景ポイントらしいが、何も見えない。



「AKIRA、せっかく来たんだから、2人でエコーしない?」



彼女と気があう理由がわかった。

ポジティブに楽しむ術を知っている。



霧で真っ白のむこう側に向かって一緒に思いっきり叫んだ。

彼女はもちろん、その様子を撮ってもらうのも忘れなかった。





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シドニーで3泊したあと、900km離れたメルボルンに夜行バスで向かう。

途中首都キャンベラで軽い食事休憩をとったあと、少し寝ようと今回新調した

アイマスクをつけてみる。眠くなる前にシドニーでの記憶がよみがえる。



今日の昼間にオアサと2人で観た映画『グリーンカード』は、字幕も

吹き替えもなく、見終わってもグリーンカードの意味すらわからなかった。

隣のオアサがとても嬉しそうだったのと、海外で映画を見たことに満足した。



長距離移動を夜にすると体力は必要だが、時間と宿代が浮くのがいい。

バスはメルボルンに朝9時頃到着した。



朝といっても真夏の太陽のひざしは強い。日陰をもとめて中心街の

アーケードを歩く。3日ぶりに背負うバックパックが重く感じる。



と、突然道の反対側から大声で呼ぶ声がした。



「It’s a small world 、AKIRA!」



ーえっ、まさか…。



笑顔で顔をくしゃくしゃにしてるのはジョードだ。

3日間過ごしたシドニーの宿で仲良くなったアイスランド人。

徹底して節約をしながら旅を楽しんでいる、あのクッキーの彼だ。



僕より半日早くシドニーを出発していたが、こんな離れた都会で

まさかまた会うとは。日本でいえば東京で仲良くなった人と福岡で

ばったり再会という感じだろうか。



通りがかりの人に頼んで記念すべき再会の瞬間を撮ってもらう。



少し話そうよ、と目の前のマックに誘った。だが彼はマックに

入っても何か注文する気配はない。あっそうか、と察した僕は、

彼の分もオレンジジュースを買って座った。



「AKIRA、Save your money.」



にっこり笑いながら諭すように言う。

外人がAKIRAと発音するときは2音目、KIにアクセントがつく。



ーわかったよ。でもこれは特別なんだ。飲んでくれ。



英語でなんて言っていいかわからず心の中でつぶやいたが、

表情で伝わっているようだ。僕らは店内のほかのどの客よりも

テンション高めでこれからの旅の予定を語りあった。



ジョードと別れたあと、メルボルンでの宿を探し回る。

3、4日この街にいようと思うが3軒続けて満室だった。



これからさき何度も経験することになるが、勝手きままの

ひとり旅では、この宿探しに手間取ると結構心が折れる。

炎天下のなか歩きまわるのが嫌になってきたころ、

こんな張り紙が目にはいった。



『エアコンきいてます。アイスコーヒー無料!』



いますぐ冷たいものを一口飲みたい。

何も考えずに扉をあけて中にはいった。



「May I help you?」



笑顔で受付の女性から話しかけられた。

ここはタスマニア行のツアーを扱う旅行会社だった。





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タイトルにもあるが、この旅のキーワードは「まっすぐ」だ。



たまたま自宅そばに日本で有数の「まっすぐな線路」があり、

高校の授業で「世界一まっすぐな線路」が豪州にあることを知り、

憧れをもって初の海外旅行でやってきた。



だがこの旅の道のりはまったく「まっすぐ」ではない。



店名を見ずにアイスコーヒー飲みたさで飛び込んだのは

タスマニア行のツアーを扱う店だった。

まさか飲み物だけくださいとはいえず、興味ある顔をして話を聞く。



どうやらこれから出発の船に乗ると一晩かけてタスマニアまで行くらしい。

ということは、今晩の宿探しはしなくていい。



そう頭にうかんだ瞬間、10分前まで全く予想していなかった展開が

現実味をおびてきた。こんな理由で海を渡るのも面白いかもしれない。



タスマニアは形も大きさも、場所(緯度)も北海道に似ている。

予習する暇がなかったが、いったいどんなところなんだろう。



メルボルンを夕刻出た船は、1人ワクワクしながら雑魚寝する

僕を乗せて、14時間後に島の北の港町デボンポートに着いた。



タスマニアには足かけ5日間滞在して島を半周した。

1日は山や渓谷をジープで駆け巡る少人数のツアーに参加したが、

ほかはずっと1人だった。



こんな贅沢な旅はほかにない。時間にいっさい追われず、

行きたいところに向かうも、その場で過ごすも自由だ。

タスマニアにきてからつけ始めた旅日記にはこうある。



「バーニーにて。今日は一日中海岸にいたが誰にも会わなかった。

ひとり旅を実感した。夕食はビール1杯、ローストビーフに

ガーリックブレッド、しめて13$。おやすみなさい」



「ロンセストンにて。今日はカタラクト渓谷を歩いて少し疲れた。

とかげがいっぱいいた。途中、自転車でタスマニアを一周している

京大生に会う。日本語を話すのは5日ぶりだ」



メルボルンで宿探しに疲れたからここまでくることになったが、

よく考えるとタスマニアの小さな田舎町で宿を探すほうが

難易度は高い。野宿にならなかったのが幸運だったが、

そんなことにまったく気づかないほど僕はこの偶然の産物、

タスマニアぶらり旅に夢中になっていた。



先の予定が決まっていない。



これを贅沢と感じる習慣は、今思うとこんなときに

育まれたのかもしれない。



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旅をはじめて2週間が経とうとしていた。



生来気は小さく、石橋を叩いて渡らないこともあるが、

時に何も考えずに行動してしまう。



大胆というわけではない。別のことに気をとられ、

石橋が見えても叩くのを忘れるのだ。



タスマニアのぶらり立ち寄りのあと、メルボルンに

戻ってきたその夜のバスで再度西に向かう。



深夜バスの中でも目がさえて眠れない。

ここまで偶然出会う人にも場所にもすべて恵まれている。

頭の中でPET SHOP BOYSのヒット曲「GO WEST」

がずっとかかりっぱなしだ。



早朝アデレードに着く。2匹目のドジョウではないが、

今度は宿探しをせずにまっすぐ港にむかう。

フェリーで1時間ほどのカンガルー島が面白そうだ。



宿は島の中心部、キングスコートから少しはずれたところ

にあるユースホステルにした。日本では草津などで泊まったこと

があるが、日本のユースとは大分勝手が違う。



管理人の家に立ち寄り鍵をもらう。部屋の鍵かと思いきや、

建物の鍵、つまりその日の客は僕ひとりだった。



5ドルで自転車も借りる。走り出してすぐ気がついた。

ハンドルのところにブレーキがない。こんな自転車は初めてだ。

足でとめるしかなさそうだが、人や車は見当たらないので

それほど危険はないだろう。



建物は500mほど離れたところにポツンと1軒あった。

電気はついたがお湯は出ない。水も濁っていて沸かしても

飲めそうにない。



その晩は冷たい濁り水のシャワーをあびて、コーラで

うがいをして寝た。不便さを嘆くより、あとでこの経験を

誰に話そうかと考えると楽しくなった。



翌朝、ツアーに参加するので準備をしていたら、まだ30分

ほどあると思っているのにもうバスがきている。



8時15分を8時50分と聞き間違えたらしい。

前日管理人と話したとき、そうそう、8の発音がエイトではなく

アイトなんだ、と自分に言い聞かせたのは覚えている。

そのあと油断して肝心の「分」に注意がまわらなかった。



あわててバスに飛び乗る前に、ドライバーに記念に1枚撮ってもらう。

なにせ「人」に会うのが半日ぶりだ。



ツアーは自然があふれる島の見どころを、夕方までかけてまわった。

野生のアザラシ、カンガルー、コアラ、エミュー、ペリカン

などに出会えて感激の1日となる。



夜、港のそばのバーでアデレード行のフェリーを待つが、いっこうにこない。

今度は聞き間違えではなく単なる遅れのようだ。

その待ち時間を利用して家に電話をかける。そういえば1週間に一度は必ず

連絡をと言われていたのを思い出した。



あらやっとかけてきたわね。いまどこ?元気なの?



それほど心配してなさそうな母の声に少しほっとする。

詳しく状況を説明する時間はないので、毎日元気で

楽しく旅していることだけを伝えた。



日付がかわる頃、4時間ねばった店を追い出されて外で待つことになった。

夏とはいえ、風もふいてきて肌寒い。

懐中電灯を借りて海岸を歩いてみる。ペンギンがいるかもと期待したが

見つからなかった。そのかわり、空には日本とは少し様子の違う

満天の星空と南十字星を見つけることができた。



フェリーがやっときたときには深夜2時をまわっていた。

誰もいない客席で、椅子をどかしてリュックを枕に床にじかに横になる。

あっという間に眠りについた。





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カンガルー島からアデレードに戻ってきて

すぐに帰りの飛行機のリコンファームをする。



旅はあと1週間。これを忘れると予約が取り消されることもあると

ガイドブックで読んだ。お金を既に払って予約しているのに、

なぜこんな仕組みなのだろう。



いよいよ夕方からこの旅のメインイベントが始まる。

「世界最長直線」の鉄道に乗って西海岸のパースまで行く。



太平洋に面する東海岸のシドニーから、インド洋に面する

西海岸のパースまで、4352kmを3泊4日で結ぶ

長距離列車『インディアン・パシフィック』。



その2/3ほどの区間、アデレードからパースまでの2700kmを

2泊、40時間かけてはしりぬける。



車両は30両ほど連結されていて長さがなんと1km近い。

新幹線2編成を連ねるより長いのだ。

東京の地下鉄だと駅についたとき車掌がまだ前の駅となってしまう。

車内アナウンスはどうなるのか考えると少しおかしい。



チケットは食事がついて400$もした。

今回は23日間で宿泊費の合計が190$、食費が330$だった。

この1日半のために残りの3週間を切り詰めた。一点集中だ。



シドニーの宿で仲良くなった旅人が、シドニーからパースまで

65時間、個室と比べて1/3の値段の「椅子席」を使うと言っていた。

足かけ4日間も椅子席でどう過ごすのか。世界の旅人のパワーはすごい。

メルボルンで再会したアイスランド人のジョードの顔が浮かんだ。



部屋は驚くほどコンパクトにまとめられている。

1畳半ほどのスペースに、テーブル2つ、ベッド、椅子、トイレ、

洗面台、鏡に洋服ダンス、靴箱に物置まであった。

清潔で機能的な空間だ。



ここがこれから40時間、自分の城になると思うと

ワクワクが最高潮に達した。



発車するとすぐに車掌が検札がてらウェルカムドリンクの

シャンパンとクッキーをもってきた。若干20歳の若造が

それだけでちょっと偉くなった気分になる。

数時間前までと同じ人、同じ旅の道中とはとても思えない。



狭いバスの席で2泊、フェリーの雑魚寝で2泊、

泊まった宿は相部屋だったりお湯が出なかったり。

そのあとのウェルカムシャンパンだから無理もない。



列車はすぐに街をはなれ、車窓はあっという間に

夕陽に照らされた土で真赤にそまった。

かなりゆっくり進んでいるように感じるが、

車窓が切り取る景色が大きいからだろう。



夕食は食堂車で2回転目が割り当てられた。

明後日の朝食まで計5食を同じ席でとる。



4人がけで、フランス人の若い夫婦と初老のオーストラリア人が

同じテーブルになった。初対面の外国人と同席、というより

日本でも食べたことのないようなフレンチのコースに少し緊張する。



お互い簡単な自己紹介から始める。

フランス人夫婦はメルボルンの大学で職を探している最中、休みを利用

してパースの知り合いに会いにいくそうだ。新婚旅行も兼ねている。

初老のオーストラリア人は、シドニーに住んでいてひとり旅だ。



このときは、パースについたあとも、偶然出会ったこの4人で

旅を続けることになるとは思いもよらなかった。





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朝は6時に目が覚めた。すぐにカーテンの外を見る。

既に空は明るくなりはじめていた。遠くに見える山が朝陽に

照らされて大地から赤く浮かびあがっている。



30分ほどするとドアがノックされた。

モーニング珈琲が届いたのでびっくりする。車内アナウンスが

あったのかもしれないが、聞き取れないのでこの列車、この部屋

のサービス内容がまったくわかっていない。

驚けるぶんお得かもしれない。



昨晩と同じ席、同じメンバーでゆっくり朝食をとってから

部屋に戻るとベッドが片付いていた。これも軽いサプライズだった。



昼前に列車はついに「ナラボー平原」に突入した。

東西1200kmにわたる広大な平原は、ラテン語で

「木がない」という意味の名前がつけられている。



朝がたはまだ山や木などが見えたが、いまは時折ソルトブッシュ

という低木がある程度で、それ以外はずっと雑草まじりの

赤土の大地が地平線まで広がっている。



昼食前の30分間、僕はこのまったく変化のない車窓を

ただじっと眺め続けた。この一瞬を大事にしたかった。

それから夕方までの7時間、車窓はずっと同じだった。



昼食のとき、僕ら4人のテーブルでは世界最長直線のことが

話題にのぼった。それを体感したくて単身ここまで来た、

と僕も話にくわわる。このエッセイの最初の回で書いた小学生時代の

くだりは、英語ではうまく話せなかった。



シドニー在住のシニア、テリーは陽気でよくしゃべる。

40歳以上離れているが、そんな年の差はまったく感じない。



「ほらAKIRA、あそこ見ろ」



テリーが指さす先では、カンガルーの親子が飛び跳ねていた。



いよいよこれから478kmの最長直線が始まる。

直線だと東京から姫路ぐらいまでの距離をずっと「まっすぐ」だ。



だが車窓が変わらないので直線区間にはいったという実感がない。

どこかで止まらないかなと思っていたら、給油で「クック駅」

に停車した。誰かが乗降りする気配はないが、車掌に聞いたら

少しなら外に出てもいいというので列車から降りてみた。



「おおっ!」



思わず声が出た。

右を見ても左を見ても、いま来た線路もこれから行く線路も、

ずうっと地平線までまっすぐ続いている。



こんな景色は見たことがない。



見える限りの先は、どれぐらい離れているのだろう。

10km、20km、いやもっとかもしれない。

360度見わたすかぎり、建物はもちろん山や木も何もない。



もし遠い未来に火星や金星に列車を走らせることが出来たら

こんな風景なのだろう。



列車から離れ少し平原を歩いてみたかったが、何時に出発するのか

聞いてこなかったので自重した。



「すごかったなぁ」



部屋にもどって自分に話しかけた。

今みたものを、そのままあたたかいうちに、思う存分話したい。

そういえばこの列車で日本人は見かけない。



また窓にへばりついて、かわらぬ光景を目で追い続ける。

しばらくするとドアがノックされた。

アフタヌーンティーだ。



ウェルカムドリンク、モーニング珈琲に続いて3度目の

来訪なのでもう驚かない。



と思ったら、車掌はティーポットとクッキーをテーブルに

置いたあと、にっこり笑ってポケットから石ころを

取り出した。



「Fossil」



化石だ!



石ころだと思ったものは、ムール貝がそのまま石になったような

ものだった。先ほど線路わきで見つけたらしい。



こんな荒野のど真ん中で貝の化石?



思わぬプレゼントをもらったこと、それが貝だったこと、

双方のびっくりでうまく言葉が出ず、ただ笑顔でサンキューとしか

言えなかった。



ずっと大事にしよう。

温かいティーを飲みながら、手のひらサイズの貝の化石を

じっくりながめた。



だがこの化石は、数か月後、ただの石と間違えた掃除中の母に

捨てられてしまった。



いまは記憶の中で輝いている。





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夕方になって、いままで赤土と雑草だけだった車窓に

少しずつ変化がみられるようになった。



低木やところどころ小さな林もあらわれる。

最長直線区間もおわり気候帯が変わりつつあった。



夕食のテーブルでは、今まで以上に話がもりあがった。

同じ席、同じメンバーで4度目の食事だ。陽気なシニア、

テリーが場の空気を華やかにした。



僕とテリーは食後に何度かラウンジカーでも

おしゃべりを楽しんでいたのでもう仲良くなっていた。



最初のシドニーからそうだが、こうした旅先での出会いは

男女、年齢、国籍を超えて互いの距離がちぢまるのが速い。

僕の性格が楽天的であることと、ひとりで旅していることも

プラスに働いているようだ。



フランス人のアンドゥルーと奥さんは、学者肌の物静かな

2人で、テリーの話にじっと耳を傾けている。



よく考えれば、新婚旅行の2人の席に僕とテリーは完全に

「おじゃま虫」なのだが、狭い長距離列車で偶然割り当てられた

席なので仕方がない。



2人はそんな素振りはちっとも見せず、いつも楽しそうに

静かに笑っていた。



パースでの予定の話になって、新婚の2人は友人と会い、

テリーは沖合のロッチネス島に行くつもりだという。



僕は帰国まで3日あるので、少し南のフリーマントル

という町にいってみようと思っていた。



ロッチネス島はせっかくなのでぜひ見たほうがいい。

豪州在住のテリーのことばには説得力があった。



結局僕らは、パースに着いた翌日に4人で島に渡る

ことにした。そうと決まると、僕らの距離はさらに

縮まった。



「テリー隊長とゆかいな仲間たち」とひそかに名付けた。

すこし可笑しくなった。



夕食後、列車は最後の停車駅、カルグーリーに着いた。

1時間ほどあるというので4人で散歩することになった。



この乾燥地帯にポツンと小さな街があるのは、19世紀末、

ゴールドラッシュに沸いたからだが、今でも金が獲れる

らしい。



生活用水は600kも離れたパースからパイプラインで

ひいているという。これも世界最長の「水道のまっすぐ」かも

しれない。



昔栄えたことがうかがえる、ずっしりとした煉瓦造りの建物が

並んでいる。



西部劇とは言わないが、映画「バックトゥーザフューチャー」

に出てきた100年以上前の街並みを歩いている気分になる。



駅で絵ハガキをお土産に買って列車に乗りこんだ。

さてこれから夜通し走って、朝にはパースに到着だ。



テリーとサロンカーでジントニックを飲んだあと部屋に戻る。

少し慣れてきた列車の振動を感じながらすぐに眠りについた。





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列車は朝7時にパースに到着した。50時間近く列車に

乗り続けるのは初めてのことだった。降りてしばらくは

身体が小刻みにふるえていた。



列車の旅というとうつりゆく車窓が楽しみだが、

今回はまったく変わらない、うつりゆかない車窓が

心に残った。



途中下車して見た360度赤土の大地は圧巻だった。

来た線路も行く線路も、どちらも地平線までまっすぐ

続いているという絵は、30年経ったいまも

すぐにカラーで取り出せる。



毎回食堂車で会うのが楽しみになった偶然の

出会いもあった。



その4人でパースに着いた翌日待ち合わせして

沖合のロッチネス島に向かった。

そこは自動車の走行が禁止されている、地上の楽園のような

小さな島だった。



ぼくは島に着くとすぐTシャツを脱いだ。

裸にリュックが似合う状況だ。自転車をこぎはじめると

自分でつくる海風が心地良い。



フランス人夫婦もラフな恰好で笑顔でゆっくり

こいでいる。陽気なテリーの会話は自転車に

乗っても止まらない。



遠くの波の音と僕らの話す声しか聞こえない

静かな時間がいつもよりゆっくり過ぎていった。



ちょっと自転車をとめて景色をみていると、

下に置いたリュックが何やらごそごそ言っている。

クオッカという野ネズミのような小動物だった。

かわいかったので、特別にランチをおすそわけした。



海岸におりてみた。あたりには誰もいない。

フランス人夫婦は岩陰で水着に着替えていた。



僕は何の迷いもなく、自転車に乗っていた恰好のまま

海にはいった。まるでここではそうしないといけないかのように。



波打ちぎわで軽く遊んだあと、木陰で休んでいると

あっという間に身体は乾いた。

不思議といつもの海の匂いがしなかった。



国籍も年齢も違うこの4人が、当たり前のように

この天国のような島で一緒にすごしている。



僕はただ、いま、ここで過ごせている幸運に感謝した。



旅の終わりが近づいてきていた。





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ロッチネス島からパースにフェリーで戻り、

降りたところで僕ら4人はわかれた。



食堂車で同じテーブルとなった5回の食事と

途中駅での散歩、そして今日の島での1日。

足かけ4日間の出会いからわかれだった。



テリーとは40歳離れているが、シドニーで

仲良くなったジョードと同じ感覚でつきあえた。

言葉の壁があるから歳の壁が壊されたのかもしれない。

人生初の「シニアの友人」だ。



もう二度と会わないだろうなと帰りのフェリーで

ぼんやり思った。ここはオーストラリアで、

それぞれ母国が違う。



最後に夕暮れの港で記念に1枚撮った。

楽しい時間の反動は、若い自分はまだ経験が浅いので

コントロールが難しい。



油断すると感傷の波がおしよせてきそうだ。

僕は心の中をのぞかれまいと、沈黙を避けるように

いつもより饒舌になった。



ずっと様子が変わらず落ち着いていたテリーの目が、

わかれ際に握手をした際、わずかに潤んでいるように見えた。



パースに戻った翌日、少し南の、ヨットレースで有名な

フリーマントルという小さな街に立ち寄って1泊したあと

帰国の途についた。





この旅は、小学校の頃に芽生えた「まっすぐへの憧れ」が

徐々に大きくなって実現した。



その気持ちは「まっすぐ」だったが、旅はずっと

いきあたりばったりであちこち曲がりながら進んだ。



「世界最長直線の鉄道」以外、宿や交通機関、一切の予定を

決めずに23日をかけぬけた。



幸せな時間だった。   『まっすぐへの憧れ』(完)



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帰国後、しばらくしてテリーから手紙が届いた。




My friend Akira,




First let me say what a pleasure it was for me to meet

such a fine young person.

Your parents have every reason to be proud of you…




で始まる文を読むとテリーの明るい声が聞こえてくる。




自宅で車のボンネットに腰掛ける、カウボーイハット姿で

笑顔のテリーの写真が同封されていた。




記憶と同様、どちらも色あせることなく

今でもアルバムの1ページにおさまっている。

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